2月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2563)

「内観」
 高校の同級生の知人が「お経などは、仏の言葉ではなく、解釈した人の言葉だと思います【田畑の註:多くのお経は『如是我聞』(私はかくの如く聞いた)と言って説かれています】。歴史家が歴史的事実を選択して解釈を加えるから、歴史は一つなのに多くの歴史書が存在します。」 「道に迷った人に一番親切なのは、交番のお巡りさんのように、連れて行ってあげるか、暇がなければ、風景を見ながら地図で示す。
 それでいいものを、お寺ではお堂の中に閉じ込めて難解な言葉を多用して、よく知っている自分に陶酔しながら、長々と説明される。 かくして迷った人はお寺を避けて町をさ迷う。」【知人の指摘は物事の一面をよく言い当てています。彼は運動を兼ねて、宇佐市内を見て歩き情報発信をし、時々、四日市の夜の街等を、世間の実態を知るべく巡視・徘徊(?)しているようです】物事をあるがままに見ること、種々のことを正しく見て判断することが大切です。仏教の特徴はあるがままの全体をあるがままに見る智慧の視点を教え、苦悩を超える道に導いてくれるものです。
 「仏教は日本の文化に何を貢献したか」の質問に「内観」と言われています。仏教の本来の「『内観』とは、主観を払って見るということです。『内観』と言うのは、自分の眼で自分の心を覗きこむように思われがちですが、それは『内観』ではありません。自分の心を外側から見ておるだけです。それは外観というのです。『内観』とは、自分を含めて内外のことが、あるがままに見えるということを『内観』というのです。
 あるがままの世界が、あるがままに見える、これが「内観」の事実(真実)なのです。それは仏教の智慧(無量光)のはたらきに出合って、初めて可能になります。そして身の事実(縁起の法、自分の深層心理の有り様などの事実)に本当に頷(うなづ)くことになり、私の眼の執われ(我見)や偏見を知らされ、対象化でない思考、「物の言う声を聞く」という発想が大事になるのです。この現実は私に何を教えよう、気付かせよう、目覚めさせよう、支えようとしているかと考える(哲学的、宗教的思考)のです。
 日常生活で、日々の課題に取り組むことで忙しく、受けて来た教育で、物事を向こう側に眺めるように対象化(三人称的に見る)して客観的に見る訓練を受けてきた私たちは、自分を見る眼は小学校の反省会レベルと言えるでしょう。
 自分は正しく物事を見ている、自分には常識的分別はある、善悪の判断はできる、そんなに悪いことはしてこなかった、という思いがあるのです。仏とか仏教と言っても対象化して眺め、仏の教えもちょっと読んでみるも、「悟り」「空」「無我」と言われても理解できない、すると「敬して遠ざける」ということになります(知の怠慢、傲慢ということもあるかも知れません)。
 龍大の学生への講義で「仏教の教えは麻雀のゲームに似ている」と説明していました。この正月、孫たちが来て、一緒に楽しめる麻雀をしました。嫁も珍しく今までしたことがないと興味を示しました。運がかなりを支配するので孫の1年生も6年生も一緒に楽しめました(やり過ぎないように注意はしました)。
 それというのも1年生と6年生の二人が”カルタ取り“をしたら姉の方は本気で取りまくったのでほとんど取ってしまいました。1年生の弟は少ししか取れず、悔しくて泣き始め、しばらく泣き止みませんでした。
 そこで麻雀のゲームに移ったら、二人のゲーム力は接近して1年生の孫がイキイキと遊ぶということができました。麻雀は牌(ハイ)を14枚揃えて完成形を作るゲームです。ルールで決まっている完成形があり、それを役と呼び、役によって、得点が決まっていて、より揃えるのが難し役ほど高得点となります。誰かが役を揃えた時点で、そのゲームは終了します。
 麻雀は配られた牌(ハイ)を並べて、順次自模(つも)ってくる牌を取捨選択して役を作っていくのですが、最初の配られら牌と自模って来る牌を自己責任で引き受けなければなりません。自模った牌を嫌だ、受け取り拒否ではゲームが成り立ちません。最初の配牌から、そして自模った牌の中から取捨選択して役を作っていきます。
 これは人生に似ています。自分の親、生まれた地域、時代。環境などは誰も選べません。与えられた状況を受け止め、そこから歩み始めるしかありません。出遇う事象も、多くは受け身的であることを避けられません。仏教では身土不二という言葉があって自分と周りの環境はぴったりと一つの関係だと指摘しています。
 人間は生物や動物のいのちをエネルギー源として食べないと生きて行けません(殺生、偸盗を避けられません)。空気中の酸素を肺から取り入れないと生きて行けません。空気のいわゆる一気圧の空気と空気圧がなければ身体を維持できません。
 私の存在は地球の全てに根差し・関係して存在しています、まさに身土不二です。住岡夜晃という在野の仏教者が 「宿命を転じて使命に生きる、これを自由といい、横超という」 という言葉を残されています。自分に与えられた境遇が受けとれずに愚痴を言いながら、どれだけの人が泣いたことでしょうか。何でこういう境遇(時代、社会、国、地域、親、能力,容姿、家など)に生まれついたのかと対象化して分別して愚痴を言ってしまいます。仏教では分別で批判的に見ると同時に、ひと呼吸おいて、仏の智慧の視点で南無阿弥陀仏と念仏して見るのです(物の言う声を聞くという姿勢)。
 「宿命を転じて使命に生きる」とは与えられた境遇を「これが私の引き受けるべき現実」と受け止めたのです。そしてその境遇は「私」を支え、生かし(今の私を作っている)、教え、鍛え、願い、気づかせようとして与えられ、恵まれたご縁、南無阿弥陀仏、と受け止め背負う言葉です。その後、次々に出遇う現実(災害、事件、老、病、死、願い事かなわず等々)は自模って来る麻雀の牌のようなものです。
 いろいろな因や、ご縁によって生かされている私とは、私の存在の背後に宿されている意味に気付かされた私です。あるがままをあるがままに見た自分です。縁起の法では自らに由っているということです、この自覚が内なる執われから解放された本当の自由(liberty ではないfreedom)です。この展開が起こるのは仏の智慧によるのです。
 浄土教では横超(おうちょう・仏の方が私を救わんがために浄土から来て、摂取不捨して私を抱きかかえ浄土に迎えとる)と表現されている仏のはたらきです。仏のはたらきの場、浄土での受けとめはフランクル(「夜と霧」(ドイツ強制収容所の体験記録)の著者)の発想の趣旨 「我々が人生で直面する事象を分別して価値(意味)を問うのではなく、我々は人生の現実をどう受け止めていくかが問われているのだ」に似ています。
 かって、師より頂いた言葉、「あなたが、しかるべき場所で、しかるべき役割を演ずることは、今までお育て頂いたことへの報恩行です」 は、分別して善・得・勝ちになることを取る事しか考えていなかった私の餓鬼根性の相を見透かて、多くのお陰様の関係性の中で育てられ、生かされ、教えられ、教育され、願われ、経験を積み、社会人として、間柄(身土不二)に目覚める人間になりなさい、との温かい教えの言葉でした。”参った、南無阿弥陀仏“と頭を下げずにおれませんでした。しかし、すぐに、仏や師やお陰様への恩知らずに戻ってしまっています。南無阿弥陀仏。

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