3月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2563)

現代の私たちの思考方法(宮地尚子)
 人間は科学を発達させ、物事の因果関係を解明することで、さまざまなリスクに対処できるよう社会を発展させてきました。現代社会では、あらゆること(地震や原発事故等)がコントロール可能であることが期待されているのです。他人事であれば「人生何が起こるかわからない」と言えても、耐え難い出来事に直面した時、それを納得することは、現代を生きる私たちにはとても困難です。だから、運命のいたずらとも言うべき出来事に直面すると、世界や自分に対するコントロール観を取り戻したいという思いを強くもちます。努力によって物事は制御できるはずだという思考を維持することで、世界や自分への信頼を取り戻そうとするのです。
 自分に自分が自信を持てなくなるということ
 私たちは「どんな時も、どんな自分であろうとも」と思いますが、この時「どんな自分」というのは、先程述べたように「見る自分」と「見られる自分」に分けてしまっている自分であって、「丸ごとの自分」ではありません。私たちには「丸ごとの自分」を受け止める能力はないのです。しかし、私たちはその能力がないとは思っていません(責任者として健気に管理支配しようとします)。だからその能力、コントロール感、を回復しなければならないということで悩み、苦しむわけです。
 自分の力でなんとか自分を維持しようとするのです。他人には頼れないという思いです。いつも自分で自分をしっかりしたものにしていこうとするのです。そのことには限界があるということには、なかなかうなずけないのです。
 現代では、努力すれば報われるはずだとか、自分が成功しなかったのは努力が足りなったからだとか、そういう考え方がまだまだ社会を覆っていて、それで苦しんでいる人も多いわけです。実際には、次から次へと不安が襲ってくる人もいれば、そうではない人もいます。努力はある程度必要ですけれども、努力が報われない時もあります。逆に努力すればするほど、追いつめられてしまうこともあります。
 つまり、コントルール感をどこで手放すかということが、実はとても大事なのです。もちろん、ある程度の「コントロール感」を持つということは必要でしょう。ただ、コントロールし続けなければいけないと思うのは、とても危ないことであるのです。(田畑註:ある真宗門徒の患者が、訳の分からない“南無阿弥陀仏”だけは言いたくない、と言っていたのに癌が発症して、いろいろ愚痴を言いながら、その後“運命だ、諦めるしかない”と発言したことは論語の“鬼神に仕える”ことに相当するように思えました)
 学校教育を含めて、私たちはコントロールを重視する価値観の中で生きているので、その価値観を相対化する必要があると思います。(一部田畑が改変、補足)(精神科医師、一橋大学教授)

 私は前記の文章に出合って、日本の現代人の思考の問題点を指摘されている、と思いました。上記の思考だと、“丸ごとの自分”を自分で受けとめることは難しいでしょう。現代社会を生き抜くためには明るい未来を目指して努力が求められるのも事実です。その課題の解決に必要なもののヒントを、宗教者の藤元正樹師は「人間この尊きもの」(現代の真宗7,1979)の著で宗教の大切さを表明されています。
 「宗教というのは、私の宗とする教えに生きることであります。生きるということは、ただ一度の人生を愛することでありましょう。自らの人生を愛することなく生きることはあり得ません。生きているから愛するのではありません。人生を愛するという相(すがた)だけが生きているということであります。
 自分の人生を愛することのない人には、本当の意味で、生きることの経験はないのでありましょう。たとえそれが、どのような怯弱(きょじゃく)な相をとろうとも、自分の人生を精一杯に愛する人を私は尊敬します。それに反して、それが、どれ程、英雄的な行動であっても、自分の人生を愛する心に裏打ちされていないようなものならば、私は信用できませんし、尊敬も出来ません。
 私にとって、宗教とは、最も深く自分の人生を愛する道の教えであります。自分の人生を、正しく把握し、かけがえのないこのいのちを、誤(あやま)つことなく歩み抜く道を指示してくれるものであります。仏教の言葉に、不誤衆生というのがあります。“本願は衆生を誤(あやま)たず”とあります。私のただ一度かぎりのこの人生を誤つことなく導く教えということでありましょう。
 誰でも、自分の人生を愛しているはずでありますが、それは、ややもすれば、自我愛であります。自分の人生を愛するということと自我愛とを混乱するところに、人間における宗教の基本的な誤解が生じます。自我愛は、自分の人生を誤りなく把握しているのではありません。むしろ自分で自分の所有欲に自分を見失っています。
 自分の人生を愛するのは、本当に、やり直しの出来ない、ただひとたびのいのちであることの自覚と、自分の人生に対する責任を負うことであります。私たちは、そういうゆるがせに出来ない一日を生きているわけです。ですから、自分を愛することは、かえって自身住持の楽を求めざる心です。
 自我愛は利已(エゴ)を本質としています。しかし、真の自已愛は、利己を捨てることにあります。仏教の法門が八万四千といわれるのは、その八万四千の多岐にわたる人間の利已心を超えしめんが為であります。そうして、本当の自分を愛する道を開かんが為でありましょう。」

 思春期、自分が生まれたことでの環境、親、親の職業、家庭の状況、容貌、能力、地域、国などを素直に受け取れずに多くの人(私を含めて)が悩んだことでしょう。自我意識は分別して自分に与えられた状況・現実が受け取れないのです。それは自分を愛してない相であると仏教は教えます。時には自分を傷つけようとします。“親が勝手に生んだ”、と被害者意識で傍観者的にみて生きる者は自己及び自分の周囲の状況を嫌い愚痴を言いながら恩ある存在へすら悪態をつきます。
 歎異抄第16章には「弥陀の智慧をたまわりて、日ごろのこころにては、往生かなうべからずとおもいて、もとのこころをひきかえて、本願をたのみまいらすをこそ、回心とはもうしそうらえ……」。よき師を通して本願、念仏の心(汝、小さな殻を出て、大きな世界をいきよ)に触れて、絶対化していた思考(狭い世界、窮屈な世界)を翻されて相対化され、狭い世界の執われから解放される。
 「宿命を転じて使命に生きる、これを自由といい横超という」(住岡夜晃)という言葉があります。
 私は科学の眼は物事を距離を置いて眺め、分別で判断してマイナス要因を忌避していたのです。そして与えられた状況に愚痴を言っていたのです。しかし、仏の智慧の眼で見る時、それらの因や縁は私を支え、生かし、教え、育てる存在でした、そして、自由とはそれらの因や縁に由(よ)ってある、自らに由るという自分の事で「心に従わず、心の主となれ」に応える生き方です。
 因や縁でたまわった世界を受けとめ生きることで果たす役割、それが使命です。それは「仏から頂いた仕事、南無阿弥陀仏」と受けとめて生きることでした(結果として、報恩行になるでしょう)。

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