4月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2564)

「人間とは?」
 広島市安佐医師会が富士川游先生の顕彰をされるという事で、ご縁を頂き富士川先生の著作を入手して読んでいます。その中で富士川先生は医師(医療関係者)に「病気を診るのではなく、病人を診る」ことの大切さを繰り返されています。医師は、本音で言えば病気を診て、病人には関わらない方が楽だと思っていると思います。病人に関わると患者にまつわるいろいろな問題に一緒に悩むことになり、時間と体力と精神力を必要とするからです。
 多くの医療者から尊敬されていた聖路加病院の日野原重明先生、日野原先生が師と仰ぐ、ウイリアム・オスラー医師も「病気を診るのではなく、病人を診る」ことの大切さを言われていました。宗教に関係する医師にそのハートも持つ人が多いように思われます。
 昨年、医学書院から出版された、「図説、医学の歴史」坂井建雄著を購入して、この著者は「医学を歴史」を表現するのに主関心事は「病気」だろうか「病人」だろうかという視点で読み通しました。私自身が約50年間医療に関わって見て、医学の歴史が俯瞰的に受け取れる読み応えのある本でした。しかし、著者の主関心事は「病気」であった、と少し落胆の気持ちと日本の医療界の宗教への無理解の現状を感じました。ところが、最近の医学界新聞、第3359号 2020年2月17日 【対談】 原典資料から歴史のストーリーを編む 医史学研究の魅力に迫る、坂井 建雄氏・柳川 錬平氏の記事を読みながら、最後の部分で先生たちが言われていることで、驚いたのです。坂井氏は 「病気を診ずして病人を診よ」、 と発言されているのです。坂井氏は「病人を診ず、病気を診ている」と私は判断したのに、その当人は「病人を診る」ことの大切さんを書いたと言われるのです。どうして見解に違いが出てくるのか考えてみました。
 「人間とは?」をどう考えるかということです。病人という人間をどう理解しているということです。
常識的には日本人と言われる人は、戸籍に登録されている人を皆、「人間です」と見るでしょう。
仏教では動物的な「ヒト」と人間を区別することがあります。どういう事かというと、外見は人間であっても、その心や思想の有り様で六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)を経巡っている、として固定した「私、我」ではなく「無我」と言って、縁次第で如何なる振る舞いをもし、次から次へと変化するあり様をしていると教えています。無我であり無常だというのです。そして「人間とは?」、をどういう存在として仏教は見ているかという事を考えてみます。
#1.人間とは多くの因や縁によって生かされている、支えられている、等と間柄を感得している存在である。
#2.人間とは象徴的に西に向かう存在である(善導大師の二河百道の譬えから)。西とは帰るべき所、心が落ち着き、安心できる場所と言われています。これはギリシャの哲学者が人間は、誰からも教えてもらって無いのに「仕合わせ」になりたいと考えているのだ、と言っていることに通じます。「仕合わせ」とは、本当に仕えるべきものに出合った時の感覚だというのです。私たちは煩悩、欲に仕えて、仕合わせを感じるでしょうか。一時的な満足感はあっても、すぐ苦の種になります。真実、真理に出合って初めて、仕えるべきものに出合った、「仕合わせ」というのではないでしょうか。論語の言葉に「朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」があるように、真実。真理、道というものは仏の智慧、悟りに通じるものと思われます。そういう方向に生きる存在を「人間」というという心ではないでしょうか。
#3.『涅槃経(ねはんぎょう)』というお経の言葉で、親鸞が『教行信証』信巻に引用している、「慙(ざん)は内に自ら羞恥(しゅうち)す、愧(き)は発露(ほっろ)して人に向かう。慙は人に羞(は)ず、愧は天に羞ず。これを慙愧(ざんぎ)と名づく。無慙愧は名づけて人とせず。」
罪に対して痛みを感じ、罪を犯したことを羞恥する心が慙愧です。慙愧がなければ、人と呼ぶことはできないと言われているのです。誰かを傷つけることは確かに問題です。また、傷つけまいと思っていても、傷つけてしまうこともあります。しかし、そのことをどう受け止めているのか、これはもっと大きな問題です。さらに次のように続きます。
「慙愧あるがゆえに、すなわち父母・師長を恭敬(くぎょう)す。慙愧あるがゆえに、父母・兄弟・姉妹あることを説く。善(よ)いかな大王、具(つぶさ)に慙愧あり。」慙愧の心が人間関係を開くのであると。慙愧においてはじめて人を人として敬うことが成り立つのです。慙愧の心がなければ、人間関係を生きていながらも相手を人として見ることができません。慙愧によって人と人との間を生きる、文字通り「人間」たらしめられるのです。
私たちの分別の思考は、物事を対象化して、いわば3人称的に眺めて、自分の都合に合うか合わないかを判断します。これが行きすぎると自分の周囲を自分の都合に合うか合わないかの、敵か味方か、手段、方法、道具のようにみてしまうのです。そうすると一番近い存在でも、利用価値のある物や道具に見てしまう危険に陥ります。そこには心の通い合う親子、夫婦、兄弟、師弟の関係は無くなります。人間性を失うということでしょう。
南無阿弥陀仏とは「汝、小さな殻(分別思考)を出て、大きな世界(仏の智慧)を生きよ」のはたらきの世界です。「友よ」と二人称的に温かい関係で呼び合う世界が浄土です。南無阿弥陀仏は「我に任せよ、必ず浄土に迎えとる」と呼びかけです。
#4.「季路問、事鬼神。子曰、不能事、人焉能事鬼神」 という文は通常 「季路鬼神に事(つか)へんことを問う。子曰く、いまだ人に事うること能わず、いずくんぞよく鬼神に事えん」 と読むのですが、親鸞聖人は「季路問わく、『鬼神に事えんか』と。子ののたまわく、『事うること能わず、人いずくんぞ能く鬼神に事えんや』と読み替えておられます。
困った事態に直面すると何かわからないが神頼みするのが人間の弱さです。鬼神とは得体のしれない魔物という意味です。人間の魂を持つものは如何なる状況に出くわすとも、「これば私の引き受けるべき現実、南無阿弥陀仏」と受け止めて粛々と精一杯の取り組みをさせていただくのです。それが人間としての矜持だというのです。
癌になる心配に気を付けて病院通いを真面目にされていた患者さんで考え得る限りの身体に良いことに心がけていましたが、専門医から癌の発症を告げられて、発症後しばらくして「運命だ、あきらめるしかない」と言われたことが印象的でした。理知分別で健気に自分の身体の責任者として振る舞ってきたのですが、遂に、訳の分からない「運命」に身を任せたのです。鬼神とはこういうものを言うのでしょう。
また別の視点で、 病気、病人(人間)をどう考えるかを見てみます。
(1).病気を主に考える日本の医療界。日本の文化状況は患者も病気さえよくしてくれれば良いと考えている現状があります。
(2).病気を持つ肉体的な人間全体を注目して、病人を診るという視点。……多くの医療者の視点。
(3).最近、健康の定義にWHOは4番目の要素としてスピリチュアルを入れようとしています。そのスピリチュアルペインを持つ人間の全体を考えることで病人を診るという視点。
日本の医療従事者の多くは、病んでいる人のスピリチュアル・ニーズや、その切実な叫びを理解できなくなってしまっているのではないでしょうか。そのためにその領域には触れないで、それは「私的な領域」「ない」こととして、病人のことを十分に思考したことにしてしまっているのではないでしょうか(傲慢)。現代社会全体が、若さ・元気さ・美などばかりを高く評価しそれに言及することが多い一方で、苦しむこと・病気の状態を生きること・死ぬこと・仏教的なこと、といったことがらについては、普段、十分に考えたり、言及しない傾向やタブー視する傾向があるように思われます(宗教者の怠慢、最近の厚労省の人生会議のポスターに関する国民の反応(病や死をイメージさせて暗い等)を見て、掲示をひっこめた)。
老病死に直面すると、患者はスピリチュアルな痛みを感じつつ、「自分は何のために生きているのか」「死んだあとはどうなるのか」といったスピリチュアルな問いを持つのですが、それに対応するスタッフは日本の医療現場にほとんどいません。
医学の準拠する科学的合理主義の思考は相手(人間ですら)を物や道具として見てしまう危険を孕んでいます。宗教的素養のない科学、それに準拠する医学、医療では人間ではなく物と物との利用し合う関係で血の通わない冷たい世界が広がる危うさを秘めているようです。仏教はそれを地獄・餓鬼・畜生の世界と言っています。「医療と仏教の協働」の文化が基礎に有る、無いで、「人間とは?」という受け止めが大きく違ってくることが思われます。

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