6月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2564)
富士川游先生の著作「医術と宗教」(昭和12年)に次の文章があります。
「我々人間の生活はまことに苦悩に満ちたるものである。(中略)、しかしながら、かように苦悩となづけられるものが我々人間の生活の全体で、もしこれを除くときは後に何物も残らぬのが現状である。生命があればすなわち苦悩があり、苦悩を除き去れば生命が無くなるのである。それにも拘わらず、多くの人々はその苦悩が消えて無くなるようにと念願し、その念願を達するがために宗教に頼ろうとするのが常であるが、宗教は決して人々の苦悩を断絶するがために使わるべき道具ではない。却ってその苦悩に直面して明らかにその真相を知るところにあらわるるところの一種特別の感情にもとづきて宗教の心が起こるのである。もし既に宗教の心があらわれる時は実際苦悩に左右せられる心が、変化して苦悩に左右せられざるようになる。ここにいわゆる苦悩の浄化が行われるので、しかもそれは決して苦悩の心が消えてしまうのではない。(p204)」、は人間の苦、そして苦の本質(背後の宿されている意味)を仏智の心で受け止めておられます。
梶原敬一氏は「生きる力」(姫路医療センタ―小児科医師、東本願寺出版、平成18年)のあとがきに、「仏教は、人の苦悩を救うのではありません。苦悩する人を救うのです。浄土の教えも、念仏も苦悩する人を救うために見出された真実の法です。ところが、私たちは、この浄土も、念仏も、人の苦悩を救うための方法としてしまっていたのではないでしょうか。人の苦悩を救う方法となった時、それは、苦しみを除き、悩みを消そうとするものとなってしまいます。
苦しみや悩みがなくなってしまう時、私たちはこの苦しみと悩みを生きている自分自身さえ見失ってしまいます。生きている感覚さえ奪われてしまうのです。
現代という時代は、まさに、この人の苦悩を奪うことを人の幸福として追求してきた結果、生み出された時代です。それが、今日の日本という社会の中に、生きる喜びが喪しなわれてしまった原因だと思います。今、この時代を救い、社会を救うために、浄土と念仏の本来のはたらきに気づかなければなりません。そして、念仏の言葉によって、自身の言葉を照らし出さなければならないのです。そして、それぞれの言葉が念仏に響きあった時、その言葉が、自らを救うのだと思います。」と書いておられます。お二人が仏法(浄土真宗)に出合っていることの共通性を感じます。
私たちが苦や悩みのない状態を目指していたのは仏教の教える「天国」を目指していたということでしょう。それは仏智の視点では、天国は六道輪廻で示す「天」であり、「迷いの世界」に過ぎないと見破るのです。
医学・医療が「健康で長生き」を目指したのは天国を目指していたのです。しかし、仏智から見れば自我意識の「迷い」の世界ですから「天人五衰」を免れません。「身」は私の思い(自我意識)で動いていません。法、縁起の法に従って動いているのでした。老病死の現実が、本来の相(すがた)、縁起の法に沿って変化するのが自然な姿だったのです。そう納得して私の迷いの現実を受け止めざるを得ません。
自我意識とは、「自分が生きていること」や、「自分が存在していること」を認識する意識です。自分と外界を区別し、「自分は一人しか存在しない!」と言う、「自己の独自性」を認識する意識です。昨日の自分も、今日の自分も、一年前の自分も、常に同じ自分であるという、「自己の同一性」を認識する自我意識です。意識は自分の在り様を認識する機能のはたらきの「場」なのです。
その自我意識は次第に、自分の欲求や希望、目標などを自らの意思に沿って実現させようとして、「能動的」な思考や行動を生じさせる意識に転じていきます。そして、他人から教えてもらってもないのに人間はいつの間にか「仕合わせ」を目指して生きていこうとするのです。自我意識の描く理想の世界を追い求めて行こうとします。仏教はそれを定散自力の世界と言い当てています。定散(じょうさん)自力とは定善(じょうぜん、心を正す)、散善(さんぜん、行動を正す)のことで定散は自力(自分で努力、精進すること)ということです。
広島の海軍兵学校の「五省」(昭和7年、当時海軍兵学校長、松下元(はじめ)少将が創始)も同じ方向性を示しています。(一)至誠に悖(もと)るなかりしか〔誠実さや真心、人の道に背くところはなかったか〕(二)言行に恥づるなかりしか〔発言や行動に、過ちや反省するところはなかったか〕(三)気力に欠くるなかりしか〔物事を成し遂げようとする精神力は、十分であったか〕(四)努力に憾(うら)みなかりしか〔目的を達成するために、惜しみなく努力したか〕(五)不精に亘(わた)るなかりしか〔怠けたり、面倒くさがったりしたことはなかったか〕、当時のエリートの学生が各自心の中で反省するものだった、と聞いています。
廃悪修善を心がけ道徳的に立派な人は確かにいらっしゃるでしょうが、全ての人に可能な道ではないと思われます。中国の道綽禅師を親鸞聖人は正信偈の中で「道綽、聖道の証しがたきことを決して、ただ浄土の通入すべきことを明かす」と讃えていますように、道綽禅師は、自力によって修行する聖道門の教えでは覚りは得られないことを自覚されたのでしょう。善導は道綽の教えを受け継ぎ中国浄土教を確立されました。法然上人は善導を師と仰ぎ、日本で浄土教の独立を初めてされました。その時の考えが「廃立」です。聖道門、浄土門の二つを比較して優劣、または難易を分別して、聖道門を廃し、浄土門を真実として立てることを教えられました。しかし、従来の仏教を廃するということで当時の仏教界から猛反発を受け、その後、法然浄土教団は解散、そして死刑・流罪(流刑、配流、遠流)となっています。
親鸞聖人は聖道門の教えは、浄土の教えに導くために必要(要門)な教え、真実に導くための仮の教えと受け取っていかれたのです(やって見なさい、やってみて、自分の実行できない姿に気付くでしょう。その結果、浄土教こそ私に可能な道と目覚めるでしょう)。
自我の拠り所の理性・知性の分別思考はその内部に有限性、煩悩性が潜んでいることに自我意識は気付かないのです。異質なる仏の智慧に触れてみて初めて分別思考の闇が破られるのです。
「悟り」「平安」「清浄な心境」「楽」「しっかりした我」等、私はそれらを求めて、それが得られさえすれば助かると思ってきました、しかし、そうではなかった。実は、不安、迷い、煩悩、苦悩の現実、業縁存在の私、の現実を、今・ここに生きているのにもかかわらず、受け入れられないで「ここではない。これは私ではない」として、自分をより良い状態(結果として自分を否定)にして生きようとしていた私でした。
『打ちくだかれて 打ちくだかれて ほがらかに わがつみひとは起(た)つにあらずや』(藤原鉄乗師)
『打ちひしがれて、立ち上れずにいる私に対して、法蔵菩薩はわがつみひととなって、つまり、宿業に苦しむ私そのものとなって、ほがらかに起(た)ちあがってくださるのではなかったのか』。このような法蔵菩薩の呼び声が聞こえてきて、『ああ、そうだったな』と、自らを呼び覚まされて、涙を払って立ちあがっていかれたときの歌なのでしょう。これは、藤原先生ご自身に聞こえてきた法蔵菩薩の呼び声なのでしょう。
人間は「つみひと」にはなれないわけです。しかし、法蔵菩薩が、われらに代わって「つみひとに」なってくださって、つまり、われらの宿業の身になってくださって、悪人になってくださって、そして立ち上がってくださるのです。「法蔵菩薩はそうやって私に代わってつみひととなって立ちあがってくださるのではなかったのか」と、藤原先生が自らに呼び覚まされて、立ち上がっていかれたときの歌なのでしょう。 |