7月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2564)

仏教の学びをするなかで、宗教関係の情報を伝える新聞あることを知りました。
その中の一つが中外日報です。取材を受けたり、公開講演会に出講の依頼を受けたことがあり知ることになりました。また最近、宗教専門紙に文化時報(京都市)があることを知りました。HPで見てみると、1923(大正12)年に創刊した、宗教専門紙、特定の宗教・宗派に偏ることなく、神社仏閣や教団関連の多彩な情報を発信、社会と宗教をつなぐ新聞を目指して、週2回発行と紹介されていました。それに「仏教タイムス」(東京都)というのがあるようです。文化時報の社長で主筆の小野木 康雄さんが「コロナ禍における看取りの危機について、弔いの意味を考えよ」との社説(6/27)を書かれています。その内容は次のようなものです。

看取りの現場を、甘く見ていた。新型コロナウイルスが、これほどまでに人々の絆を引き裂くとは、思いもよらなかった。緩和ケア専門の在宅診療クリニックを営む新城拓也医師の寄稿が、本紙24日号に掲載された。コロナ禍では、終末期のがん患者と家族らが面会できず、十分な別れができないまま旅立ちを迎える。そうした現実を、「医療現場の残酷物語」として紹介していた。
緩和ケア病棟の約8割は、建物がほかの病棟から独立していない「院内病棟型」である。院内感染を恐れ、人との接触機会を減らすことを厳密に追求すれば、面会は制限せざるを得なくなる。たとえ、死にゆく人と一目でいいから会いたいと望む家族であっても、例外ではないというのだ。
世界医師会が患者の権利について定めた「リスボン宣言」には、「患者は人間的な終末期ケアを受ける権利を有する」とある。家族と会わせないことが人間的なケアだとは、誰も言えまい。それでも、終末期の患者はそうすることが当然であるかのように権利を制限されてしまっている。
新城医師は、寄稿の中でこう記した。 「死者の権利は奪われたまま、もう取り戻すことはできません。そして、残された家族は、患者を弔う機会を奪われたままです」 こうした切実な言葉を、医師から聞かされていること自体に、宗教者は何を感じるだろうか。
宗教者は葬儀を通じて死者と向き合い、神仏を介してあの世を知るからこそ、多くの人々を導ける。もちろん、命の尊厳や死生観を巡る問題は人類共通のテーマであって、宗教者の専売特許ではない。だが、コロナ禍の最前線に立つ医療従事者の身内から疑問を呈さざるを得ないほど、緩和ケアの実態がゆがんでしまっているのなら、声を上げるべきは宗教者ではないのか。
生死にまつわる根源的な苦しみを和らげる「スピリチュアルケア」に、緩和ケア病棟や介護施設、在宅の現場で取り組む宗教者は少なくない。彼らは、医療・介護従事者とは異なる価値観や時間軸で、患者や利用者に人として接することの大切さを知っている。取り返しのつかない別れを増やさないためにも、ぜひ現状について情報発信してほしい。
多くの緩和ケア病棟はいまも感染拡大への警戒を緩めておらず、いまだに家族らの面会を制限しているという。厳しい状況下で、宗教者に対する意見を新城医師に求めたところ、次のような返答だった。
「宗教者の方々にとっても、患者・病人を弔うとは、家族と弔いを共有するとはどういうことなのかを、いまこそ考える機会ではないでしょうか」 心ある医師の呼び掛けに、弔いの専門家である宗教者が応答しなければ、看取りの現場は荒廃する。いまを逃してはならない。

医療療養型(病状としてはほぼ安定しているが医療的な処置の必要な患者対応)病棟を担当している私にも患者家族からもう少しお見舞いの面会をできるようにしてほしいとの声は聞こえてきます。コロナ騒動の中、コロナでの高齢者の死亡率が高いというはっきりした事実が示されていますので悩ましい。
富山県では老健施設(入所者65人、職員64人)でコロナ患者が発生して感染者59人、死者15人のクラスターが報告されています。重傷者は医療機関へ搬送していますが、病院へ搬送の準備をしていて急変して亡くなったということも起こっています。濃厚接触者は自宅待機となり、最悪の時は残った職員は6名だったそうです。県内で加勢をしてくれる人を何とか集めて乗り切ったそうです。まさに医療崩壊に薄皮一つだったのです。こういうことがあることが想定されると、患者、家族の希望よりは病棟を管理するという方に行動を起こしてしまいます。
新城先生や小野木主筆の文章から問題点を考えてみたい。
#1.仏教的な思考の観点が全くないのが問題だと思われます。仏さんだったらどう考えるだろうか?と思索する。
#2.医療は生きている間のことを問題としているので死の前後の死周期に関わるには、三世(死の前・死・死の後、過去・現在・未来)の救いを説く仏教との協働が求められるべきである。
#3.死にまつわる種々の行事(弔いなど)は中国の道教の行事を引き継いでいて、日本に渡来してから仏教版に様式を変えてなされているという。行事の内容の約8割は道教によると聞いています。
#4.江戸時代の「家の宗教」の制度が無くなり形骸化して、科学的合理思考を信仰する人がほとんどになった日本の文化状況があります。
#5.高齢者社会になった現況を踏まえて、老病死の苦を超える教え(仏教)をもう一度学び直すことが大事になると思われます。
#6.日本は(欧米に比べて)経管栄養などの延命治療をしている高齢者が多く、医療・福祉の施設にそれらの多くの人達が居ることも、コロナでの重症化への心配になります。
面会制限による孤独な死について考えてみました。緩和ケアの病棟を設計する時、先ず(1)家庭の中に居るような感じが出る配慮する(家庭の延長線上)。(2)自然の中に包まれているような配慮の設計にする、と聞いたことがあります。仏教では「独生独死独来独去」(仏説無量寿経)と示されています。現在のコロナ騒動の状況では人間社会(世俗)に限定すれば、思い通りに親しい人に囲まれて……、ということは実現できないかもしれません(在宅だと可能ですが)。人間の叡智が管理支配できる社会を作ってきたのですから、管理支配できない“自然”が露出したら困るのです。このコロナ騒動(はっきりした治療方法がない、自然の治癒力を期待するだけ)で出てきた現象は、管理社会の中に”自然が露出した”現象でしょう(能率効率を優先する都市社会、東京で患者の発生の多い現象)。これを何とか人間の思いで管理支配しようと人知は考えて対応しようとします(養老猛司先生のいう脳化社会(都市社会)。
不自然が自然へ、非本来性が本来性へ……、戻されるのが道理です。浄土真宗の妙好人は「浄土はどこだ、ここが浄土の南無阿弥陀仏」と言われています。人知を尽くしながら浄土を生きることが願われるということです。仏さんは不安、苦悩を超える世界【浄土】を生きて行きましょうと言われています。
人間の不都合と思われる現象を、さらに管理支配する方向ではなく、「この現実は何を教えようとしているか」、と「物の言う声を聞く」思索をすることが仏の智慧の世界へとなって行くでしょう。

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