8月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2564)

 「救い」というものを考えてみます、というのは、よき師より仏教の救いに関してのお話を聞いた時、ビックリしたからです。私達は「救い」に関して人生経験の中で「救い」とはこういうものだというイメージを作っています。癌になって治療をうけて救われた、経済的に困っていたのが予定外の援助が得られて救われた、災害に遭ってヘリコプターで安全な場所に搬送されて助かった、などのイメージを想定します。師より聞いた仏教の救い( これが私の引きうけるべき現実、南無阿弥陀仏、と受け止める )は世間的な救いのイメージとは全く違っていましたからビックリしたことを憶えています。
 仏教で「救い」に関した先輩方の表現があります。
  (1) 曹洞宗の良寛:「災難にあう時節には災難にあうがよく候。死ぬる時節には死ぬがよく候。これは災難をのがるる妙法にて候」
  (2) 臨済宗の仙腰a尚:最期の時を迎えての言葉。「死にとうない、死にとうない」であった。まさかこんな言葉が出るとは予想もしなかった弟子達はあわててその真意を訪ねたが「ほんまに、ほんまに」といったと伝えられている。
(3) 仏教済世軍の真田増丸師:虫垂炎から腹膜炎となり状態が悪くなった時、盛んに痛い痛いと言われるので弟子達が「先生どうかお念仏を」と申したが、先生は大喝一声「そういうことはもう済んでおる、今は痛いんじゃ」と言うて、痛い痛いで死になさったという。
  (4) 親鸞聖人(1173-1264)御伝鈔(ゴデンショウ)には1262年、いつもと違って健康がすぐれなくなられ、それからは、口に世間のことなどを話さず、余分なことを語らず、ただ、仏恩の深いことだけを語られ、もっぱら念仏称名の声がたえることなく、11月28日のお昼過ぎ、ついに亡くなられました。晩年、「いささか所労のこともあれば死なんずるやらんと心細くおぼゆる」(歎異抄第9章)の文章は親鸞聖人が本当に心細く思われたのであろうかどうか。聖人の自らのことであるのか…?。川上清吉(浜田市出身、島根大学教授、停年を待たずに退職され、全国を廻って法話をされていた)師は癌で亡くなられるが最後に「あなたはあと三カ月しかもたない」と言われた。その時のことが『川上清吉選集』二巻に書いてある。自分はあと三カ月のいのちという宣告を聞いて、はじめてわかった。『歎異抄』第九章のこの文は決して親鸞御自身のことではない。聖人のことではない。聖人が病気のとき心細く思われたのでは決してないとわかった。なぜかというと、自分はその宣告を聞いて何ともなかった。あと三ヵ月の命と思うて念仏して、何も心細くなかった、と言われている
(5) 禅宗、甲州の快川和尚(恵林寺の住職)は戦国時代の終りに武田勝頼が織田信長に滅ぼされて滅亡する時に、お寺も焼き打ちにされて快川和尚も死ぬ。寺を包囲されて火をつけられたその時に、弟子達と一緒に威儀を正して山門で焼け死ぬのである。「安心必ずしも山水を用いず、心頭滅却すれば火もまた涼し」という偈を残して死んでゆかれた。
(6) 中国、宋の時代の無学禅師は元の兵によって寺を包囲された。皆逃げていった中でたった一人残って、元の兵が刀をつきつけて打ちおろそうとするその時に偈をよんで、「電光影裡春風を斬る」と言われた。元の兵は恐れて斬れず、遂に助かるのである。
(7) 法然上人は建暦二年、亡くなられる前八十才の時、「浄土を欣(ねが)う行人は病患を得て偏(ひとえ)にたのしむ」と言われた。病気にかかってもう助からないという時、その病気が浄土へ生まれてゆく縁となり、却って楽しみとなると、お念仏して悠々と死んでゆかれた。
(8) 臼杵祖山師(1872-1948九州の方)、松原 祐善師(元大谷大学長)、癌の診断を受け、それ以上の治療を断り悠々として死んでゆかれた。私の業と受け取って死んで行かれた。
(9) 蓮如上人の『御文章』四帖目十三通には(上人の御晩年)「夫れ秋さり春さり既に当年は明応第七孟夏仲旬頃になりぬれば、予が年令積りて84才ぞかし、然るに当年に限りて殊のほか病気に侵さるる間、耳、目、手、足、身体こころやすからざるあひだ、これしかしながら業病のいたりなり、又は往生極楽の先相なりと覚悟せしむるところなり、これによりて法然聖人の御語に曰く『浄土欣う行人は、病患をえて偏にこれを楽しむ』とこそ仰せられたり、然れどもあながちに病患をよろこぶ心更に以て起らず、浅ましき身なり、慚(は)づべし悲しむべきものか」とある。
(10)正岡子規:結核で34歳で亡くなる:禅の悟りとは、どんな場合でも平気で死ぬことだと思っていたが、それは間違いで、どんな場合でも平気で生きていることだとわかた。
(11)細川巌師:私はいつも思う。頭がどうかなったならば必ず一万円札を毎日毎日数えておるだろう。貯金通帳を出しては引っこめ、引っこめてはまた出して毎日毎日計算していることだろう。しかし何も心配はいらない。どんな事をしても決して心配はいらぬと家内に言っている。死も私の人生であり私が通過せねばならない通過駅であって、それは私において心細いことではない。「さるべき業縁の催せばいかなる振舞もすべし」(『歎異抄』第十三章)、これを頂くと、私は今はしゃんとしているが、しかるべき縁が起ったならば、どのような振舞をしでかすかわからないものを抱えている。何が起るかわからない。が、しかし何が起ってもかまわない。たとえ心細く思ってもかまわない。そういうものの届かない天地が与えられている。(担当医として、細川先生は自然体で穏やかに眠るが如く亡くなられた)(例示は終わり)

 仏教の救いは「これが私の引き受けるべき現実、南無阿弥陀仏」と、平生より死に正面から向き合うことを通して、死によって終わってしまわないような豊かな生の意味を見いだしてきたのです。自己の存在の意味に目覚め、有限な生をいきいきと生きていくためには、「生のみが我等にあらず、死もまた我等なり。」「我等は生死を並有するものなり」(清沢満之)は、死(老病死)の不安におびえ、生だけに執着した迷いの在り方から解放される道を教えています。
 細川先生は、死に対して決断型と優柔不断型とある、どちらもあるからいいのであって一方だけではつまらぬ。「火もまた涼し」という人ばかりでは世間はギスギスして面白くない。両者ともに成り立つと私は思う。何事も両面が必要である。どちらも長所がそのまま欠点である。どちらでもかまわない。悲しみも憂いも届かないように、人間の持ち合わせたものが届かない世界がある。そういう人間の持ち物がものを言わない世界、いずれもいずれも南無阿弥陀仏になっていく世界がある。
 死が聖人自らの問題であるのかどうかを考える時、我々はも一つ死の問題をつっこんで考えることができるであろう。「心細くおぼゆることも煩悩の所為なり南無阿弥陀仏」である。死に対する問題をどう思おうと、全部許されている。問題は平生業成というところにある。本当に念仏を聞き開いて平生において往生浄土の身になるということが一番大事な問題である。そして、出てくる私の心や行いが何であろうとも、すべて南無阿弥陀仏になっていくということが一番大事なことである。

(C)Copyright 1999-2018 Tannisho ni kiku kai. All right reserved.