9月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2564)

 新型コロナウイルス感染症の全貌が少しずつ把握できるようになってきました。
 しかし、高齢者や基礎疾患を持っている人程、肺炎になり死亡する率が高いということです。70歳を過ぎた私は感染すると10数%の死亡確率です。身近なところで発生し始めると私も感染の危険にさらされます。私自身のこと、そして病院の責任者としてどうして運営・管理していこうかと不安な気分が起こります。
 治療法の確立してないウイルス感染症の治療は自然の治癒力によるしかありません。自分自身の栄養状態、十分な睡眠、適度な運動、清潔に保つ等の基本をしっかりして、あとは医療者にお任せするしかありません。仏教の悟り、信心をいただいている、などは病気の治療成績にはほとんど関係しません。今回の新型コロナ感染症は体力(免疫力等)があればよくなり、体力が十分でないと医療の敗北となるでしょう。
 仏教は病気の治療の結果に関係なく(あるがままに)「病人を丸ごと救う」はたらきをします。無量寿経には「生死勤苦の本を除く」と説かれています。「生死(しょうじ)」とは仏教では、「迷い」ともいい業因により心は六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天界)の状態を経巡り流転すること、を意味します。その「迷い」を超えることを仏教は教えるのです。「生死勤苦の本を除く」とは生老病死にまつわる苦、四苦の根本的解決を教える(病人を丸ごと救う)ものだということです。
 今回の新型コロナウイルス感染症が世の人々の「不安」を生み出すのは、私たちの「思い」が及ばない(医学・医療が治療法を確立できてない)出来事だからです。
 私の「健康で長生き」という思いを邪魔する感染症が不安を引き起こすのです。その不安を無くそうとして人間の叡智は取り組みますが、まだ力量不足のために管理支配できない状態です。仏教によれば、不安とは、私たちの「思い」が「あるがままの事実」と離れていることから生まれている気分だと言います。
 仏教では人間のことを「生死するもの」と言っています。私どもの「生きること」そのこと自体が、一つの解決を要する課題(生きることに必然と伴う、老・病・死の「苦」を、分別で言うとマイナス要因をどう受け止めるか)として、私どもに与えられているのでしょう。不安は「思い」を生きる人間の避けることの出来ない現象でしょう。仏教では、不安は取り去るべきもの、誤魔化すべきものではなく、不安こそ私たちが日常の中で忘れていたこと、見失っていた存在の深みへと呼び返すものと教えられています。

 富士川游(1865-1940、明治?昭和期の医学史学者、浄土真宗に通じた内科医))の著作『医術と宗教』にある文章を田畑が一部改変して文章を作りました。
 「我々人間の生活はまことに苦悩に満ちたるものであります。しかしながら、かように苦悩となづけられるものが我々人間の生活の全体で、もしこれを除くときは後に何物も残らぬのが現状であります。生命があればすなわち不安や苦悩があり、それを除き去れば生命(生きているということが)が無くなるのです。それにも拘わらず、多くの人々はその不安や苦悩が消えて無くなるようにと念願し、その念願を成就するがために神・仏に頼ろうとするのが常でありますが、こと仏教に関しては決して人々の苦悩を除去するがために使わるべき手段や道具ではないでしょう。苦悩や不安に直面してその背後にある人間存在の深みの真相へ目覚めさせ、あるがままの世界へ呼び戻すはたらきとして顕現するものが智慧のはたらきでしょう。もし仏の心(智慧)に触れる時は実際苦悩に左右せられる心が、変化して苦悩に左右せられざるようになる。ここにいわゆる苦悩や不安の浄化が行われます、しかし、それは決して苦悩の心が消えてしまうのではありません。仏教は生死を超える(転悪成善)、苦悩する人を救うのです。浄土の教え、念仏は苦悩する人を救うために見いだされた真実の法です。」
 このことを受け取りやすく説明してくれている千葉県市川市の僧侶西原祐治師の文があります。
 本、『モリー先生との火曜日』の紹介に、「ミッチ、私は死にかけているんだよ」 16年ぶりに再会した恩師、モリー・シュワルツ教授はALS(筋萎縮性側索硬化症)に侵されていた。忍び寄る死の影。「あと4か月か5か月かな」。だが、その顔には昔と変わらぬ笑顔があった。「この病気のおかげで一番教えられていることとは何か、教えてやろうか?」 そして、老教授の生涯最後の授業が始まった――。
 コラムニストとして活躍する著者ミッチ・アルボムとモリー教授が臨床の病室で実施された「ふたりだけの授業」の記録がその本であり、その中に「海の描写」があります。
 「この間おもしろい小ばなしを聞いてね」とモリーは言い出し、しばらく目を閉している。ぼくは待ちかまえる。「いいかい。実は、小さな波の話で、その波は海の中でぶかぶか上がったり下がったり、楽しい時を過ごしていて気持ちのいい風、すがすがしい空気−−ところがやがて、ほかの波たちが目の前で次々に岸に砕けるのに気がついた。風が強くなってきたのです。
 『わあ、たいへんだ。ぼくもああなるのか』
 そこへもう一つの波がやってきた。最初の波が暗い顔をしているのを見て、『何か、そんなに悲しいんだ?』とたずねる。 最初の波は答えた。『わかっちゃいないね。ぼくたち波は皆、砕けちやうんだぜ! 皆なんにもなくなる! ああ、おそろし』すると二番目の波がこう言った。『ばか、分かっちゃいないのはおまえだよ。おまえは波なんかじゃない。海の一部分なんだよ』」(以上)
 『わあ、たいへんだ。ぼくもああなるのか』という不安、悩みは何だろうということです。それまで小さいゆっくりした小波の心に波風が立っていなかった中に、やって来た波が岸で強く打ち砕かれるのを、小波が遠くに眺めて、『わあ、たいへんだ。ぼくもああなるのか』という不安、混乱が起こったのです。
 周囲の状況から穏やかな小波の状態であるのを「私」と思い、その状態を当たり前、当然の事と思っていたのです。ある時、日々刻々と変化する自然現象(自然なすがた、縁起の法による変化)によって、変化した、強い波の状況を見て、「ぼくもああなるのか」という混乱が引き起こされたのです。小波にとって、穏やかな海面が普通の海の本来の姿と考えて、当たり前、当然の状態と局所的、近視眼的に見て、海の全体像が見えてなかったのです。
 風などで変化する海というあるがままの全体像が見えってない状態、近視眼的に見ていた執われから引き起こされた歪み、軋みが混乱、即ち「不安」・「悩み」として露呈したのです。俯瞰的に全体が見えている先達(よき師、友の教え、導き)によって「海と一体である」(自然、本来性の事実)という真実の自分に出遇っていって、執われ心が開放されていくのです。
 これは私たちが限りある生(老病死を必然とする命)を告げられて混乱や苦しみをもつ状況と同じです。苦しみや混乱は、重要な意味があり、その苦しみは真実なもの(法)からの働きかけによって起るという理解です。不自然が自然へ、非本来性が本来性へ戻される道理です。
 だから苦しみや混乱は、「不幸なこと」「無意味なもの」と解決することではなく、苦しみや混乱の中に身を置き、私が質的な転換をして真実に同化することが重要だということです。安心(あんしん)は不安がないこと、安らかな心情のことです。しかし、安心(あんじん)は、仏教に基づく言葉で、「安」は「安立」「安置」などの意で、自分の心を道理にしっかりと立てることです。つまり、不安があってもよいというのが安心(あんじん)です。
 信国淳先生(宇佐市の出身)の言葉に「人間は死を抱いて生まれ、死をかかえて成長する」があります。それはさらに「年をとるということは楽しいことですね。今まで見えなかった世界が見えるようになるんです」のに展開へと導かれるでしょう。

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