10月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2564)

 Facebookの知人の情報で原典を見ていないのですが、秋元寿恵夫医師は著書(※1)の中で、グレッグ博士が1946年コロンビア大学医学部の卒業式で行った講演を翻訳し、紹介しています。グレッグは、優秀とされる医学校の卒業生が社会に出て活動する過程で「身中の虫」として常に心せねばならない 要素として「うぬぼれ Complacency」「忘恩 Ingratitude」「地方人気質Provincialism」をあげ、これらを医師に限らずエリートなる人々が陥りやすい病いに見立てて「CIP症候群」と命名。
 「CIP症候群」には用心しろと警鐘を鳴らしています。その中で「忘恩」についてグレッグは、大学が医学生を教育する総コストに対して授業料は「七分の一以下」と概算し、医学生は大きな利益を享受していると指摘したうえで、次のように語っている。
 「この並外れた利益を諸君にもたらしてくれた人々は、いまはすでに親しくことばを交わせる間柄からはほど遠い世代に属している。またこのような計算は、医師に託したそのあつい信義に対して、いつかは諸君が報いてくれるであろうと期待していた人々に、深く頭をたれて感謝の意を表するのもまた当然であることを思わせるに十分であろう。 いわば諸君は賭けられているのだ。それも六対一の勝負で。諸君は必ずや自分が受け取ったものを、のちに社会へ引き渡す立派な医師であることに、 多くの人々が賭けているのであるから、どうか諸君、下世話にいう『馬に賭けても人に賭けるな』の実例にならぬように十分に心掛けていただきたいのである」。医師を養成する大学の卒業式で、「馬より劣る人間になるな」と言っているわけです。
 私(田畑)自身が40歳頃、某公的病院の外科部長として赴任した時。仏教の師からいただいた手紙の一節に「あなたがしかるべき場所で、しかるべき役割を演ずるとは、今までお育て頂いたことへの報恩行です」との言葉に「参った!、餓鬼だった(※2)。人間になれてなかった、南無阿弥陀仏」と念仏させられてことがありました。浄土真宗の「信心」のうけとめは、言葉によって人間がその存在を言い当てられ頷かしめられた心のことを言うと教えていただいています。人間がこしらえる心の状態ではなく、「目覚め」をいただくのです。如来より賜りたる信心ということです。
 仏教の唯識では科学的思考の医学の問題点を、人間を対象化して客観的に見て、人間存在の生理・病理を解明して治療学で管理支配して行こうとする方法論は「人間」や「生命」を物化、道具化する危険(地獄・餓鬼・畜生の世界になる)をはらんでいることを見ぬいているのです。
 仏教の人間及び心の内面を見る視点について、宗教評論家のひろさちや氏は、「人間に宗教は必要なのでしょうか?」(※3)の課題に、人間は宗教を持つから動物と区別されると思います。「動物プラス宗教イコール人間」であり、逆に言えば、「人間マイナス宗教イコール動物」と言うことです。動物とは、エコノミック・アニマルということもできましょう。宗教を持たない人間は、「損か得か」の経済原理でしか動きません。他人が困ろうが、他国の人が苦しんでいようが、自分たちだけが繁栄すればいいのだという生き方―それがエコノミック・アニマルです。そういう動物に、日本人は成り下がっていると言えないでしょうか、と問題提起をされています。仏教の勉強をしながらいつも気になり心に残る指摘をされた次の文章があります。それは宗教学者羽矢辰夫(※4)は科学的合理主義の医学・医療の世界を意識して次のように書かれています。
 「私の人生は一回だけで、死んだら終わり。だから、生きているうちに、楽しいこと、心地よいことをするしかない。私だけが幸せになることが、人生の目的である」。この思考は、人によって程度の差はあれ、虚無主義と快楽主義と個人主義が複雑に絡みあいながら形成されているように思われます。生きることにほとんど意味を見出せないけれど、生きていかざるを得ないので、その基準を、最も生きている実感を得られやすい、個人の快楽に求めようというわけです。 とはいえ、いつも楽しく過ごしていたい、それが幸せというものだ、というのであれば、人生の最後は必然的に不幸せです。また、幸せになろうとして、幸せを未来に求めると言うのであれば、現在はつねに不幸せな状態だということになります。今が幸せであれば幸せを求めることはないからです。(中略) この人生観の中に極端なエゴイズムから、自他を大切に思うヒューマニズムまで含まれているのです。 唯物論的な近代科学の見方が、追い討ちをかけます。というより、近代科学が提示するコスモロジーを私たちが受け入れ信仰している結果、といったほうが正しいかもしれません。私たちの世界はすべて物質に還元でき、生命を構成する物質が集積したときに「生」があり、それが分散したときに「死」があります。ただそれだけのことです。「生きている」ことに意味はありません。「生きている」こと自体に意味がないのに、その質(Q.O.L、quality of life)を問う意味はありません。質を問う根拠はどこにもないからです。(以上)
 現代人は科学思考の文明の恩恵を受け、それを拒否することが不可能です。そこで科学的思考への対応について、素粒子物理学者松田正典広大名誉教授は「科学の素晴らしい展開と悲劇を考えたときに、 科学主義を否定するような発言を聞くことがあります。しかし、単純なメリトクラシー(※5)批判、 科学主義批判は観念論にすぎない、と言われて次のようなコメントを言われています。 科学主義やメリトクラシーは、 やらざるを得ない。 人間が生きるということの現実です。 イギリスの社会学者、 教育者のヤングは、 「メリトクラシー」 という言葉を作った。 メリット、 デメリットの分別で全てを計ることは、 人間の文化の破壊につながると言っています。
科学主義批判は、 広い意味のメリトクラシー批判でしょう。 だからこそ、 いよいよカウンターカルチャー(※6)のかけがえのなさが見えてくる。 日本には、 それが伝承されてきた。私は 「アミタクラシー(※7)」 という言葉を世界語として提唱したい。 「アミータ」 は計ることができないという意味です。 阿弥陀仏、光寿無量のアミダです。人類が抱えている 「業苦」 は、 メリトクラシー(人間の分別の計らいに通じる)と言ってもいいと思います。 「大悲」 はアミタクラシーです。  大乗仏教を今日的に言えば 「アミタクラシーに生かされつつ、 メリトクラシーを生きる」 と言える生き方(相互の補完関係が大切)だと思います。

(※1)「医の倫理を問う−第731部隊での体験から」秋元寿恵夫、勁草書房1983年
(※2)仏教では人間の心の状態を地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天人の六つで表現することがあります。六道輪廻と言って心はこの六つを経巡っていると教えます。人間は、これで良いのだろうかと考える状態。餓鬼畜生や欲まみれで本能のままに生きる状態。
(※3)「なぜ人間には宗教が必要なのか」 ひろさちや 講談社の実用BOOK 2004年
(※4)「スッタニパータ、さわやかに生きる、死ぬ」羽矢辰夫著‘NHK出版2007年
(※5)メリットクラシー【meritocracy】実力主義。能力主義社会。学歴社会
(※6)カウンターカルチャーとは、その価値観や行動規範が主流社会のものとは大きく異なり、しばしば主流の文化的慣習に反する文化のこと。社会の支配的文化に対し,敵対し反逆する文化を,一般に対抗文化(カウンターカルチャー)あるいは敵対的文化(アドバーサリー・カルチャー)と呼ぶ。
(※7)「アミタクラシー【amitacracy】」は仏の智慧による思考。阿弥陀の本願を受け止める生き方

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