11月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2564)
「迷いの眼には 真実は見ることが出来ない」「思い通りにならないのが人生」の法語があります。仏法の智慧(真実の法、教え)が私の思考を「迷い」と言い当てているのです。
仏智の目で見ると、「私の身体や人生の種々の出来ごとは『縁起の法』で動いています(仏の悟り、目覚め、気付きの内容)。一方、私の思いは分別思考によって、(1)自己中心的に幸せのプラス価値を増やし・マイナス価値を減らす方向、(2)自分の思い通りに事を運びたい、(3)周囲を管理支配したい、と意図しています。確かに自然災害(地震・火山噴火・風水害など)、未知な病原体による病気の流行などに直面すると、人知の及ばないことに気付きます。しかし、仏教が指摘して教える「迷い」は、私自身の思考の問題点、及び思考の深部に潜む無明・煩悩性のことです。
私の思考は私の身体の存在が危うくなるような反省はしません(自分には甘く、他ヘは厳しい)。仏の智慧は人間存在の闇を照らし破ると表現します。知り合いの仏教者は無量光(智慧)に照らされて意識の底の闇が晴れると思っていたがさらに深い闇が見えてきたという表現をされています。私の分別の二元論及び煩悩まみれの思考を「迷い」と言いあてるのが真実(仏の智慧)でしょう。
一遍上人の言葉に「我とは煩悩なり」があります。私の理知分別の思考は自分の「迷い」の一部に気付くことが出来るでしょうか。壁に向かって逆立ちをして自分の手で自分の身体を一時的に支えることは出来たとしても自分の手で自分を持ち上げることは出来ません。
仏の智慧の視点を学ぶ中で、仏の智慧の所見を知識的に知って、「自分の迷いの愚かさ」に気付いた、ように勘違い(我見)するのです。しかし、それは仏の視点を私が分かったように私有化してしまう我痴の相ではないでしょうか。
よき師や友、そして仏教の教えによって驚くような体解(教えによって私の存在の事実に自分では思いもしない、深く広い認識を得て、納得する)を獲て、「参ったなあー、南無阿弥陀仏」(頭を地に着けて懺悔です。同時に“真なるかな、悲しきかな、喜ばしきかなの感動)と受けとめることに導かれるでしょう。それは一生、消えることなく念仏によって憶念されて念持(持続)されてゆくでしょう。
金子大栄師は「在家仏教としての真宗」(金子大栄、在家仏教2020.8.15)の中で、人間としてのあり方が、時代と共に知識が増えて偉くなっては人間の存在を悲しむというような仏教の気持ちは分からなくなるのは当然であると思われる。大慈悲は第一に広い心、第二に深い悲しみ、第三にそれこそ人間のあり方を認識したものである。人間とはいかなるものであるかということをどん底まで知り抜いたものが大慈悲である。こういう点からいうと、大慈悲こそ本当の智慧である。真に人間としてのあり方を了解して、人間であることの悲しみ、人間であることの頼りなさを知り抜いたところに仏の大慈悲がある。人間であることの悲しみ、人として生まれし悲しみをもし吾々が感ずることが出来るならば、その心を手掛かりとして仏の心を知ることができるであろう。(後略)(以上)
富士川游(1865-1940、明治・大正・昭和初期の医学史学者、浄土真宗に通じた医師の著作『医術と宗教』にある文章を田畑が一部改変)は念仏の心に触れることを、「我々人間の生活はまことに苦悩に満ちたるものであります。しかしながら、かように苦悩となづけられるものが我々人間の生活の全体で、もしこれを除くときは後に何物も残らぬ、のが現状であります。生命があればすなわち不安や苦悩があり、それを除き去れば生命(生きているということが)が無くなるのです。それにも拘わらず、多くの人々はその不安や苦悩が消えて無くなるようにと念願し、その念願を成就するがために神・仏に頼ろうとするのが常でありますが、こと仏教に関しては決して人々の苦悩を除去するがために使わるべき手段や道具ではないでしょう。
苦悩や不安に直面してその背後にある人間存在の深みの真相へ目覚めさせ、あるがままの世界へ呼び戻すはたらきとして顕現するものが智慧のはたらきでしょう。もし仏の心(智慧)に触れる時は実際苦悩に左右せられる心が、変化して苦悩に左右せられざるようになる。ここにいわゆる苦悩や不安の浄化が行われます、しかし、それは決して苦悩の心が消えてしまうのではありません。仏教は生死を超える(転悪成善)、苦悩する人を救うのです。浄土の教え、念仏は苦悩する人を救うために見いだされた真実の法です。」と表現しています。
キリスト者の渡辺和子師は著作「置かれた場所で咲きなさい」の中で、「人生にぽっかり開いた穴からこれまで見えなかったものが見えてくる。」と言われています。「順風満帆な人生などない」と題して、「私たち一人ひとりの生活や心の中には、思いがけない穴がポッカリと開くことがあり、そこから冷たい隙間風が吹くことがあります。それは病気であったり、大切な人の死であったり、他人とのもめごと、事業の失敗など、穴の大小、深さ、浅さもさまざまです。その穴を埋めることも大切かもしれませんが、穴が開くまで見えなかったものを、穴から見るということも、生き方として大切なのです。私の人生にも、今まで数えきれないほど多くの穴が開きました。これからも開くことでしょう。穴だらけの人生だと言っても過言ではないのですが、それでも今日まで何とか生きることができたのは、多くの方々と有り難い出合い、いただいた信仰のお陰だと思っています。宗教というものは、人生の穴をふさぐためにあるのではなくて、その穴から、開くまで見えなかったものを見る恵みと勇気、励ましを与えてくれるのではないでしょうか。」
歎異抄の著者、唯円(ゆいえん)は第九章(以下に提示)で、思い通りに行かない聞法の歩みを師に相談されています。求道での疑問、越えられない壁や不安は、その背後にある真相への気づきへの貴重なご縁となるのです。
念仏申し候へども、踊躍 (ゆやく) 歓喜(かんぎ)の心おろそかに候ふこと、またいそぎ浄土へまゐりたき心の候はぬは、いかにと候ふべきことにて候ふやらんと、申しいれて候ひしかば、 親鸞もこの不審(ふしん)ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。よくよく案じみれば、天にをどり地にをどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもひたまふなり。
よろこぶべき心をおさへて、よろこばざるは煩悩の所為(しょい)なり。しかるに仏かねてしろしめて、煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願はかなくのごとし、われらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。
また浄土へいそぎまいりたき心のなくて、いささか所労(しょろう)のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり。久遠劫(くおんごう)よりいままで流転せる苦悩の旧里(きゅうり)はすてがたく、いまだ生まれざる安養浄土はこひしからず候こと、まことによくよく煩悩の興盛(こうじょう)に候ふにこそ。なごりをしくおもへども、娑婆(しゃば)の縁尽きて、ちからなくしてをはるときに、かの土へはまいるべきなり。いそぎまいりたきこころなきものを、ことにあはれみたまふなり。これにつけてこそ、いよいよ大悲願はたのもしく、往生は決定(けつじょう)と存じ候へ。 踊躍歓喜の心もあり、いそぎ浄土へもまゐりたく候はんには、煩悩のなきやらんと、あやしく候ひまなしと云々。
唯円は聞法の歩みの中で本来なら感動や願生浄土の心が起こってしかるべきなのに、私は「喜びがない、浄土に往きたいと思わない」、という生活の中の問題を赤裸々に師に相談されているのです。その問いをご縁に師を通して、人間存在の有り様に目覚め、そして人知を超える仏の心(大慈悲)にあらためて深く触れ直して行かれています。 |