12月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2564)
11月下旬のNHKのニュース関連の放送で、保育園のことが報道されました。それは保育士の人たちがマスクをして幼い子達に対応している。そうすると子供にとって保育士の顔が目の部分しか見えなくて、マスクなしの時に見えていた口、口の周囲、頬、鼻の様子が見えないために、人と人が顔を見ながら相手の表情を学ぶことによる感性などの情操の発育に影響が出るのではないかという内容でした。。
仏教では、この世の中の事象は全て関係性がある。無関係なものはない。関係の大小の違いはありますが。釈園の悟りの内容、仏の智慧の具体的なものに「縁起の法」と言われるものです。前に記した関係性を言っているのです。大きな原因(因)があり、それが(縁)に触れて、働き(「業」、動き、行動)が生じ、その結(果)が出てきて、それが次なるものに影響(報)を及ぼす。 ( 因⇒縁⇒業⇒果⇒報 )物事は因や縁によって何でも生じる(千変万化する)可能性を持っている。それは決して運命論的なものではなく、途中で人間の意思でその働きに介入できるという事でもあるのです。。
「縁起の法」では、私という存在は周りの環境と一体的な(一つとなった)存在で、周囲と切っても切れない関係によって存在あらしめられている、と教えます。遺伝学的には生命連鎖の37億年の最先端を生きています。私たちの先祖は数えきれないほど存続の危機を乗り越えてきたのです。戦争や飢饉の時などに私たちの先祖はきれいごとで済まされない地獄絵図の中で、他人を犠牲にして生き延びて私に命をつないでくれているのです。。
私の身体を構成している物のほとんど元は命ある物で、彼らの同意もなく食物として食べた物によっています。人間は自分で光合成できませんので、光合成する植物、植物を食べた動物を殺生して食物としてエネルギー源を得ています。糖分などを具体的にエネルギーにするために酸素が必要です。酸素は地球上のいたるところの植物のお陰によっています。。
私の意識や思考は、私が生まれてからこれまで、家族、親戚、近所の人、友人ら、さまざまな人たちとの関係性や交流によって影響を受け、幼稚園、小中高の先生などによる教育や訓練によって育てられました。私の場合は大学の教官、職員、先輩、後輩、ご縁のあった人達の影響もあります。大学病院では外来や入院の患者さんたち。社会人になってからは職場の先輩、同僚、赴任先で経験を積ませていただいた患者さん、その後の龍谷大学大学院での仕事は貴重なご縁でした、挙げたらきりがありません。。
「私は人の世話になってない、自分で稼いだお金で生きている、自立している」などとは口が裂けても言えません。もしそれを言うとしたら、パック詰めの魚や肉が外界と遮断された状態で保存されているように「真空パックの中に居る」と主張するようなもので、それだと酸欠になり3分間で脳死です。地球上で身体の体形が維持できているのは、大気圏の空気による気圧があるから存在出来ているのです。私の存在はまさに地球に、宇宙に根ざしているのです。。
自我意識は身体の中に育ってきますが、いつの間にか私の身体を勝手に私有化してしまっています。私物化して、自我意識に都合の良いものは誇り、都合の悪いことには”何でこんな私“と不平を言っています。そしてすべては賜りものですが、そのことを忘れて私の身体として当然、当たり前のこととしています。仏教の言葉に「おのれさえ おのれの物でない」があります、賜りものなのにお礼はしていません。
関係性という事でマルチン・ブーバー(イスラエルの神学者)の言っていることが、理解を深めてくれます。ブーバーは、「根源語とは、単独語ではなく、対応語である」と言われるのです。物事や事象は単独語として存在するのではなく、対応(関係)語として存在すると言われています(関係存在であるという事)。。
単独語とは私達が物事は客観的に、私の身体があり、パソコンがあり、空気があり……というように分別して一つ一つ個別に独立して存在すると考えます。この思考は「縁起の法」(関係存在である)に反しています。対応語とは「私─それ(I-it, Ich-Es)」「私─汝(I−you, Ich−Du)」に示すような関係を意味します。しかし、対象を3人称的に見るか2人称的に見るかが次に重要になります。私自身は義務教育などで教えられたのは客観的、3人称的に見る思考を教えられたと思っています。それは科学的な思考で、部品を組み立てていって工業製品を作る、という思考です。医療では臓器別に診ていって総合して人間の全体を診るという手法です。。
ブーバーは我々の取る態度(対応語)によって世界は二つに分かれるというのです。仏教の教える「縁起の法」で言えば、「全ては関係存在です」ということです、しかし、関係性に二つの対応語があるとブーバーは言っているのです。縁起の法(関係性)を細やかに説いている仏教の唯識の思想では、すでにそのことを言及されていたのです(唯識は、4世紀インドに現れた瑜伽行(ゆがぎょう)唯識学派という初期大乗仏教の一派によって唱えられた思想体系)。遍計所執性(「私─それ」)と円成実性(「私─汝」)という事でほとんど同じことが示されていたのです(詳細は今回、略します)。。
関係性を分かりやすく説明すると「リンゴが落ちる」現象と「ヘリウム入り風船が浮かぶ」現象を説明する時、実感では「重いものが落ちて、軽いものは浮く」と説明します。それは間違ったことを言っているのではありません。それでは「宇宙に浮かぶ月はなぜ地球に落ちて来ないのか?」。これを説明するのに実感の説明では頷けません。ニュートンの「万有引力の法則」(質量ある物どうしが引き合うという法則、私が高校で習った知識レベル)の方が両方を納得させる説明が可能です。ニュートンが見出だした法則が多くの事象を説明できますし、我々の実感をも包含しているのです。。
科学的知識・思考は物質や分子レベルの動きなどを説明するのに良いのですが、心や自我意識を説明するのには現在のところほとんど無力です。「私─それ」の対応語(科学的な思考、私と切り離して向こう側に見る)は、「私─汝」の対応語(「縁起の法」(円成実性))に包含されていると考えて良いでしょう。より大きな、全体を包んだ視点、俯瞰的視点が人間や人生の全体像を考える時、全体を如実に把握した視点(に近い)と思われるのです。。
この世の物事・事象・人間の言動は縁起の法で動いていると思われるのです。しかし、自我意識は自分の思い(自力のはからい)で周囲の物事を考えてゆきます。。
業道(ごうどう)自然(因果の法則どおりに結果を生ずること)の現実を自我意識(分別思考、煩悩具足)は自分の思いで見るのです。そこには必然として差が生じます、「思い」と「現前の事実」の間に差が生じ、それが不安、苦悩を引き起こすのです。あるがままを如実に見る、仏の智慧、悟り、目覚めの視点が大事なのに、思いの自我意識は私という固定した存在があり、私の物がある、そして私の周囲を思い通りに管理支配したいのです。。
私(自我意識)は現実に直面して生じる不安や苦悩を無くしたいのです。科学的思考でなくす努力も大切でしょうが、不安や苦悩は仏のはたらき、法蔵魂が私の胸底、我が脚下に働いて、自我意識に寄り添い、自我の迷いと現実の間の摩擦、軋みが不安・苦悩の声となっているのです。。
哲学者ハイデッガー『有の間に寄せて』1956)の著作には、「人間自身の根源の自覚が、その苦悩を通してふき出てくる、今までつまっていた泉の深い水の底が開いて、そこから深水が湧き出てくる(引用終わり)。それを仏教的に見ると、私の自我意識の受けとめのところに自身の底にある源泉(法蔵菩薩のはたらきが来たって)が湧き出て乱流を生起するものが不安や苦だという考えであります。仏教の特色で、苦の根源というものが本当に分かったら、そのときにはすでに苦の根源から超越しているというのです。。
法蔵菩薩(弥陀)の本願、南無阿弥陀仏を念仏者は「我称え 我聞くなれど 南無阿弥陀仏 連れてゆくぞの 親の呼び声」と受け止めです。そこには「友よ」(御同行御同朋)と呼び合う血の通った温かい関係が実現される浄土の場があります。念仏する時や、僧伽においてよき師や同朋と讃嘆する場に身を置く時、苦悩する我々に寄り添い、はたらき続けて止まない仏のはたらきを感得するでしょう。 |