1月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2564)

 児玉真美さんの著書「海のいる風景」(生活書院 2012年)、「私たちはふつうに老いることができない」(大月書店、2020年)を読みました。身体的・精神的障碍を持たれている人や家族のことをすこし知ることが(知識的にですが)できたように思います。医師になって初めの頃は障害者手帳は生まれてから先天的、後天的に病気をかかえる子供が持つものというイメージを持っていましたが、次第に大人や高齢者が種々の病気を縁に障害を持つようになり、障害者手帳を持つという現実を知ることになりました。誰も老・病・死を避けることができないので、私を含めて国民の多くの人はいつかは障害者になる可能性が高いということになります。
 NHKの最近のテレビ放送で「葬儀の多様性」を放送した番組で、「死」は世間的に誰もが避けたい一番の課題だと忌み嫌う内容が背後に秘められている内容のものでありました。また別の医学関係のテレワークでの講演で「不死と幸福を目指す医療」という医療界ではちょっと毛色の違った講題があり、聴講してみました。講師は種々の病気(生活習慣病)対策を考える中で、老化現象は病気だという発想で加齢現象を研究しているという夢を語り、「老い」とは生理現象ではなく、病気という発想で不死の糸口を見出し、治療を考えていると誇らかなに語っているのは驚きました。常識とされているものを疑うという発想は科学の進展には欠かせないものだと私は思いますが、人間が不死になれが地球上での悪性腫瘍のような働きをするでしょう。
 人間を含めての生命現象を生物学では、「人間の体は、脳も肝臓も皮膚も、小さな細胞が沢山集まってできている。その数は約60兆個。毎日3000億−4000億個ずつ死滅しているが、『細胞の死』を意識することは無い。新たな細胞が登場し、補ってくれているからだ。 生物学の定説だと、細胞には二つの死に方がある。火傷や外傷で破滅的な状態に追い込まれる『壊死(壊死)』と、いわゆる『死の遺伝子』が働きプログラム通りに整然と死ぬ『自死』だ。細胞の自死は専門用語で『アポトーシス』。逆説的だが、人間のような多細胞生物では、古くなって役割を終えた細胞が、このアポトーシスによって後進に道を譲り、健康な体が維持される。もしアポトーシスに異常が起き、不必要な細胞が死を忘れると、『個体の死』を脅かすことに。代表格ががん細胞で、ほぼ無限に増え続け体をむしばむ。
 心臓の筋肉細胞や神経細胞は非再生系細胞と言われる。この細胞にも寿命がある。非再生系細胞にはアポトーシスとは別の死の仕組みが備わっているようだ、それを三つ目の死に方ということができる。非再生系細胞の死は再生系細胞のような代わりとなる細胞はなく、個体の死に直結する。にもかかわらず、プログラムされているのはなぜか? 『種として生命の連続性を保つため、傷ついた遺伝子が次の世代に確実に引き継がれないよう、個体を丸ごと消し去るのだろう』」と考えられているという。
 人間の生命や生命現象をどう受け取っているかが問題です。ある生命倫理学者が医学医療に携わる人に「人を人として見ていないような視点が含まれている。そのことを自覚する必要がある。」と苦言を呈していました。その説明に、人が人として見る4つの次元を提示しています。(1)「生命」、生物学的視点。(2)「生きている身」、身体を持って具体的に生活する存在。(3)「人生」、生まれる・死ぬことや生きる意味、存在の意味、価値等を思考。(4)「いのち」……生きていることの全体、自我意識の誕生の前から生身は存在し、生身が死んでからも周りに影響している。憶念する人がいる限りその存在がはたらいている。
 医療人が自他を含めて、人間の「いのち」をどう見ているかということです。自我意識の強い現代人でも、科学的思考の生物学的「生命」よりも今、私が「生きている『いのち』に関係する全体(関係存在)」の方が圧倒的に大きいことは実感できるでしょう。
 人間存在をどの次元で受けとめているかが対人援助の医学医療では問われます。
 私自身が現在医療療養型病棟の入院患者約50人の担当医をしていますが、担当患者さんの把握には病歴、最新の身体状況、栄養状況、発熱の有無などの情報により日々の更新に務めています。しかし、患者さんの生きてこられた人生観や信条、職業歴、価値観、何を大事にして生きてこられたか等はほとんど把握できていません。看護師から時間外に異常の電話相談を受ける時、回診時の患者のイメージと記憶している個人情報で対応しています。日常診療はそれで間に合わせていますが、「人を人として見ていないような視点が含まれている。」と指摘されると「申し分けない」と自省するしかありません。
 上記の2冊の本を読んで著者の娘さんがお世話になっている公的な施設で家族の立場で講演をした内容が圧巻です。公務員体質の新任看護師長が患者(障害者)の気持ちをほとんど無視して医学的、管理体制をしっかりしようとして、障害者の人間性への配慮を欠く傾向があり、現場の看護師も管理者の意向を受けての対応になる傾向が進み、障害者が生き生きしなくなり、実務の看護師も意欲をそがれ、入所者管理が中心の運営傾向で……、家族の方にも子供達の元気さが無くなるのを感じる人が増えて、現場の雰囲気に人間性への配慮のなさが目立ち、新しい看護師長への批判が増え、県の上部者を巻き込んだ事件(?)になったそうです。その改善策を協議する場が何回か持たれ、そこでの家族の声を代表して児玉真美さんが話を関係者の前でする機会が設けられました。以下が講演の要旨内容の一部の抜き書きです。
 「医療の中にこの子の生活があっていいのかという気がしたんです。この子の生活の中に医療がある、というのでなくてはいけんのじゃないか、と。」、「医療の中にこの子の生活があるのではいけない。この子の生活の中に、いかにもさりげなく医療的な配慮やリハビリを忍びこませてやるか、……。」
 ここで問題となったのは子供さんへの対応である。看護の責任者は子供の病気、障害を良い状態(?)に管理することが主関心であった。家族は子供の生活全般を問題とした。良い状態と言っても子供にとってか、誰にとって良いということかということが複雑に絡みます。医療関係者に「人を人として見ていないような視点が含まれている。」の状態が起こったのでしょう。入所者や患者の人間性をどの次元の発想で見ているかということが現場の雰囲気をつくりだしていくということでしょう。
 医療者養成の医学教育は、医学も教育も科学的思考で組み立てられています。その教育を受けて国家資格を得た医療職の人は、患者や障害者の生活や生命をどう受け取っているかということです。加齢現象、病気、障害をいわゆる健康や正常に戻すことが医療であると教えられていますので。治療で治療できない状態になった患者には看護師かリハビりの担当者が接する時間が多くなります。治癒できない病気、固定した障害には医師として対症療法しかできることはありません。
 日本の医療界や医療現場は医師の力、影響力が強く医師の生命観、人生観、価値観が雰囲気を作っていきます。患者の人生が問題となる緩和ケアでは医師はあまり発言しない方がうまく行くと言われることがあります。最近眼に止まった「医療は誰のため、高齢者のがん医療を考える」唐澤久美子(東京女子医大、放射線科教授)という文章があります。
 医療の目的は、健康の増進により、その人の人生を良くすることである。その医療によって自分の人生が良くなるかを決めるのは本人であり、narrative based medicine  (ナラティブ・ベイスド・メディスン)  が注目されるようになってきた。エヴィデンス・ベイスド・メディスン( evidence based medicine ) では,人間を生物一個体として捉え、客観的なデータにより治療法を決めている。しかし,ナラティブ・ベイスド・メディスンでは、その人の考え方や生活を尊重して治療方針を決定する。患者の生き方、考え方、社会的立場、家族関係などの物語を伺い、医師の物語(診断や推奨する治療法)を患者にお伝えする。その上で、患者と医師の物語をすり合わせ、「それぞれの方法には意味がありますが、どうしましょうか、あなたはどう思いますか」と対話をして患者の意思に従って治療を決めていく。(中略) 医療は、医療を受ける本人のためのものである。Doctors magazine 2020年12月号p2
 私(田畑)自身は、ぼちぼち医療の世界から引退を考える時期にあって、又病弱な高齢者の医療療養型病棟の担当者として、医療によって管理支配しようとする自分自身を深く反省させられる内容であり、教えられるところが多くありました。

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