2月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2564)

 仏教の視点と我々の相対分別の科学的な視点は次元が違うと教えられてきて、異質な仏の視点を自分自身でどう受けとるかが仏教の学びの過程での大きな関心事でした。私の学びの中で、実感した質の違い(次元を異にしている)を挙げてみます。
 仏教に出遇った最初の頃、人生を生きていく上で、無意識に善悪、損得、勝ち負けを考えながら思考している自分を知らされました。相対分別の思考では、たとえばある事象に出くわして決断を迫られると、集められる情報を総動員して、その事象が私にとって善悪、損得、勝ち負けを、時にはどちらでもないぐらいの分け方が全てであると思って、決断していました。ある方が人生とは取り返しの使いない決断の連続である(後に触れる「在決定」に関係)と言われると、そうだな!、と納得したものです。
 しかし、仏教に触れて、私の思考自体が分別という思考方法に執われ、縛られていると驚くように知らされると、相対分別を超える思考のあることに納得するのでした。医療の世界で「健康で長生き」は多くの人の願いでしょう。長生きは時間で計れます。代表的なものは平均寿命です。最近では健康寿命を尊ぶ傾向があります。
 世間的には寿命は長いに越したことはありません。
 真言宗の僧侶、古川泰龍師の「死は救えるか」(地湧社)を読むと、高齢者が「長生きしたい、死にたくない」という心の背後には、「死のない世界、死なない命」に巡り合いたいという心の底からの叫びである、と書かれていて、それは宗教的には永遠とか、無量寿とか、死を超えた世界に出会いたいという、「宗教的目覚めを求めての心の叫びです」と書いているのを読んで、私なりに変に納得したのです。
 浄土教の、学びの途中で「南無阿弥陀仏」とは仏の世界からの「汝、小さな殻を出て、大きな世界を生きよ」という呼びかけの言葉と聞いていたからです。南無阿弥陀仏のアミダ仏は、mitaは量るの意味でa は否定の接頭語。Amita は無量という意味で量(はか)ることを超えたという意味です。無量寿、無量光を合わせたものがアミダブツ(阿弥陀仏)です。「大きな世界を生きよ」は「仏の世界を生きよ」であり、次元を超えた仏の世界を仏の智慧の受けとめで生きよ、です。
 南無阿弥陀仏に込められた仏の願い、仏のいのち(寿、無量寿)に触れる時、仏の心に触れて(念仏申さんと思い立つ心の起こる時)永遠、無量寿の世界に摂めとられて、出遇うべき世界に出遇った、いのちの物理的な長さは問題ではない、今の一瞬に永遠に出遇う時、場を恵まれた、その世界を感得すると命の長い、短いに執われない「今」を精一杯生きて行こう、南無阿弥陀仏、となり。その今の積み重ねの足し算が人生だ、と受けとめられるように転じられるのです。物理的時間を超える味わいをいただくでしょう。
 質の違いと言うことで「八番問答」というのがあります。『論註』上巻末(西七註 92)に設けられた八つの問答のことで、極悪の機(人間の意味)の救いの問題を論じています。極重罪であるところの五逆【父を殺すこと、母を殺すこと、阿羅漢(あらかん)を殺すこと、僧の和合を破ること、仏身を傷つけることをいう】と謗法(仏法を謗る、無視、無関心)について、謗法が五逆より罪が重いことを示しています。
 「もし無仏・無仏法・無菩薩・無菩薩法と言わん、かくのごときらの見をもって、もしは心に自ら解(さと)り、もしは他に従いて、その心を受けて決定(けつじょう)するを、みな「誹謗正法」と名づく、と。(「信巻」『浄土論註』)(中略) もし諸仏菩薩、世間・出世間の善道を説きて、衆生を教化する者(ひと)ましまさずは、あに仁・義・礼・智・信あることを知らんや。かくのごとき世間の一切善法みな断じ、出世間の一切賢聖(げんじょう)みな滅(めっ)しなん。汝ただ五逆罪の重たることを知りて、五逆罪の正法なきより生ずることを知らず。このゆえに謗正法の人はその罪もっとも重なり、と(東聖典273、島地聖典12-113、西聖典注釈版298)。
 田畑の現代的趣意:先生、師と言われる人が善道(世間的、仏教的)を説かないと、正しい法を説く人が無くなる、それは仏法を否定する思考にもなり、倫理道徳的なものもなくなり、地獄・餓鬼・畜生の三悪道の世界がこの世にはびこることになってしまう。だから謗法の方が五逆罪よりも罪が重いのです。
 仏法を謗る(仏法は時代遅れだ、もう役に立たない古典だ、善いことは書いているが理想的なことを書いているだけだ、仏法はなくても人は幸福になれる、無関心等々)ことの方が五逆罪よりも重たいのだと言われて、そうなんだと気付くことです。
 確かに世間的に仏教界への問題提起(宗教者の生き方、行動に問題が多い、宗教の名で悪いことをしている人が多い、宗教が世間的な問題を引き起こしてる、現実問題から逃げている、現場なき教学、等)があり、それは謙虚に受け止め、行動や生きる姿勢を正されることが大事です。
 曇鸞はまた「在心」「在縁」「在決定」という言葉を使っています。罪の重い軽いは「心に在り、縁に在り、決定に在り、時節の久近・多少に在るにはあらざるなり」(東聖典274,島地聖典12-114,西聖典注釈版299)と。時間の長い短いの量的な問題ではないのだと押さえます。(親鸞仏教センター「浄土を求めさせたもの」 ―『大無量寿経』を読む― 第 41 回(2011.03.09)の要旨より)
 「在心」とはどういうことか。悪業を犯す人は正しい教えに触れていないから、自分のものの見方や考え方が虚妄顛倒、つまり虚偽で妄想であり、ひっくり返っているという事に気付いていない。私たちは自分を中心に考えていますから、「ひっくり返っている」とは思わない。仏陀からすればそれが間違っているのですが、我々はこれを受け入れられない。私の思考(自分が一番常識的であり、自分は十分に思慮分別している、自分の考え以外の発想は思いつかない、世間のほとんどの人が私と同じように考えて居る)の基礎の愚かさ(相対分別の思考で狭い、浅い視点になっている。自我意識の底に潜む煩悩性に目覚めてない)に気づかない。
 それに対して、「南無阿弥陀仏」と十声称えるという十念は、仏さまが方便し、苦悩の衆生を安んじ慰めるために、本当の存在のあり方を懇切丁寧に教えてくださるところから生ずる。一生悪業を尽くしたのは虚妄顛倒の立場で、十念は翻された立場(自我意識の執われに気付き、その思考を翻して仏の教えの如くに生きようとする)です。立場が変わったことについて重い軽いは言えないのです。これが「在心」です。重い軽いを決めるのは心の質の問題だと。
 金子大榮先生は「人生は長さではない、深さである」と仰いました。人生は虚妄顛倒の長さではなくて、真実に触れた重さであると言っても良いかも知れません。
 千年の闇に閉ざされていた部屋に光が差せば、闇は千年居たからといって光を遮ることはできない。光が入ったら、闇はたちどころに立ち去るしかないように、どれだけ悪業の人生が長かろうと、仏の教えを心から信じて称える(仏の智慧を頷き、いただく)というところにたちどころに翻るのだということです。これは、この立場に触れない人からすると無茶苦茶だと思うわけです。しかし、信ずるという立場(自分の思いの分限性、不純性、愚かさを知らされて、それを指摘する仏の智慧の受けとめて考えて行こうとする、仏智をいただく立場)が生ずるということは、質が変わるということです。
 仏の智慧の視点を知らされると、いつの間にかそれを私有化して頭に蓄えた知識にしてしまいがちです、そうすると私(思いの自己)が仏の光に照らされる驚き、感動は減じていき、当たり前、当然のことにしてしまう危険が潜んでいます。人を通して法話を聞くなど、仏の前なる場を持つことで生きる姿勢を正さることが大事だと受けとめて念仏しています。(続く)

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