3月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2564)

 (前回よりの続き)曇鸞は「在心」「在縁」「在決定」という言葉を使っています。
 罪の重い軽いは「心に在り、縁に在り、決定に在り、時節の久近・多少に在るにはあらざるなり」(東聖典274,島地聖典12-114,西聖典注釈版299)と。時間の長い短いの問題ではないのだと押さえます。(「在心」は前回触れています)私達は量的な思考は普段に慣れていますが、仏教は量的プラス質的な思考を大事にしています。仏教の質的な受けとめを知って「目からウロコ」というような受け止めに気付いて行きます。その例を示して説明しています。
 「在縁」とは、衆生は煩悩虚妄の果報(註1.)を生きていますが、仏陀の教えを聞いた十念の人は無上の信心を依り処とし、それは「阿弥陀如来の方便荘厳(註2)・真実清浄・無量功徳の名号」(東聖典274、島地聖典12-114,西聖典注釈版299)に依って生じるということです。親鸞の名号論の基礎はここにあると言っても良い。衆生を救いたいという願いが果となった名前が「阿弥陀如来」です。これは「方便荘厳」であって、実体があるわけではない。一切衆生に大涅槃の功徳、一如の功徳を恵みたいという大いなる慈悲が物語を生みだし本願を生みだして、無上功徳を衆生に与えたいとする。その時に阿弥陀如来という名前を立ち上げて、阿弥陀如来の名前を念ずれば、無上功徳が衆生に与えられるという方法をとる。これが阿弥陀如来の本願なのだといいます。本願の物語を通して、本願の功徳を衆生に与える。
 そして、荘厳とは願が言葉となり象徴的な形をもつことです。衆生を救うために、無限なる用きを愚かな衆生(私)に与えたい。無限なるものを有限なる衆生に直接与えたくても入らないから、手だてとして「名前を念ぜよ」という形をとって与える。だから、方便荘厳の名号(南無阿弥陀仏)だというのです。そして、それは方便ではあるが「真実清浄」です。
 それに対して、どこまでも人間の不実と不清浄性を照らし出すような用きをもっているのが、本願(無量光、智慧)の用き、如来の用きです。
 名号に照らされることにおいて、如来の用きの前に「恥ずべし、痛むべし」、申し訳ありませんと言うしかないような自分が見えてくる。教えとしては全部くださるというけれど、私には、とてもそのような、いただけるようなものはありませんと言うしかない存在でございますと。如来は真実清浄であり、我ら凡夫は不実汚辱でありますという対応で自覚(自分に対する目覚め)を与えられるのです。

註1:仏教の縁起の法に沿った受けとめ、全ての事象が成り立つには、必ずそうあらしめる要因があり、因とは、ものが成立する直接的原因、縁とは、それを間接的に成立させる条件のことです。花が咲くには、種が花の因です。花が咲くには土や水、光や気候などの条件が整った時に咲きます。因と縁が実ると、それに合った結果が出ます。そのことを果報と言う。
註2:荘厳:「みごとに配置されていること」「美しく飾ること」の意。漢字の「荘」「厳」はいずれも「おごそかにきちんと整える」 という意味。尊く形なきものを私たちに分かるように現わすこと。荘厳は一般には「そうごん」であるが仏教では「しょうごん」と読む。(仏教は基本が呉音読みです)

 もう一つは「在決定」です。「かの罪を造る人は、有後心・有間心に依止して生ず」(東聖典275)と。我々は歴史を引き受けながら生きていますから、自分で新しい人間になりたいと思っても、過去の自分を切り離せない。次の行為に対しても、まだ何かどうにかなるだろうと考えながら生きている。これが有後心、後があるだろうという心です。そして有間心は、間がある、まだ未来に時間があるだろうと考えながら生きていく心です。そのように命をズルズルと生きていることに対して、死を目前にした罪悪深重の悪人は、ここで仏さまの教えを本当に信じないなら自分は地獄行きだという、切羽詰まった絶体絶命のとこで聞いています。だから無後心・無間心、つまり完全にもう後がない。そういう時を、今、ここ に生きる。そういうことにおいて、先ほどの重いとか軽いとかいう問題がひっくり返るのです。
 凡夫が仏に成る歩みを52段階で示されています。それには名前がついています。1段目から10段目を「十信」、続けて「十住」、「十行」、「十回向」41段目から菩薩の位で「十地」(41段目を初地、42段目を二地、43段目を三地……50段目を十地)といいます。51段目は、仏の悟りと等しいということで、「等覚」と言われます。そして一番上の、下から数えて52段目の悟りが「仏覚(ぶっかく)」と言われる仏の悟りです。
 菩薩は上求菩提・下化衆生(作心:自分も救われ他をも救う)の修行に励みます。108の煩悩を一つずつ減らして、七地の位まで来て最後に一つ残った作心を仏から「煩悩」だと指摘されます(衆生を救いたいというのも煩悩だ……そう指摘されると前に進めなくなる)。あと一つの煩悩を無くすると修行の完成なのに、それを無くすると成仏に進めない、留まると煩悩に汚染(煩悩が108あろうと、一個あろうと、質的には煩悩の身)されていると指摘されるのです。七地の菩薩もお手上げの状態、そこで阿弥陀仏に遇って本願力を頂くことで菩薩の志願が初めて完成されると言われます。
 質的な違いで私自身(1949年生)が思い出されることは、物心ついてからは。ラジオ放送を楽しみに生活していた。1950年代後半、テレビ放送(白黒)が始まり映画館のような感動を受け、個人(自転車屋さん)の家でプロレスを見せてもらっていた。その後、しばらくして自宅にテレビが来た。1960年代後半我が家もカラーテレビになった。
 ラジオは声を聞いて判断するので1次元的な情報(声の情報を経時的直線状に聞く)である。テレビは声と画面で2次元的(プラスα)な情報である。カラーテレビだと白黒からカラーへと2.5次元的情報である。次元が高くなると情報量は飛躍的に増える。1次元でいくら工夫しても2次元の情報にはかなわない。次元が増えることは質的に変化が起こる事になります。仏教の唯識の人間の意識の内観の世界(仏の智慧に照らしだされた意識・深層意識)を学ぶと質的な次元の格差を感じます。マルチン・ブーバーの思索を借用しますと、私が世の中を見る時、その見方の基本を「私(1人称)―それ(3人称)」と見ているのか、「私―あなた(2人称)」と見ているのかで、この世界の見え方が2種類に分かれるというのです。私はブーバーの思考に触れるまでは「私―それ」の物の見方をしていました(日本の公教育はその思考方法によっている)。それ以外の視点があるなんて思いもしませんでした(絶対化)。「私―あなた」の思考方法があると知った日、今までの3人称的視点(思考)のなんと狭い、浅い思考かと驚きました。唯識思想は紀元後2−3世紀にそのことを深く思索していたのです。(量と質の違いについて、続く)

(C)Copyright 1999-2020 Tannisho ni kiku kai. All right reserved.