4月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2565)

 (前回よりの続き)量と質の課題を続けています。
 兵庫県農民詩人の村上志染の詩に「方向」というのがあります。
「濁れる水辺  方一尺の天地、 水馬(みずすまし)しきりに円を描きける 汝 いずこより来たり いずれに旅をせんとするか、ヘイ、 忙しおましてナー」
 仏道の歩みを教える経典の中に「入初地品」という所があります。その内容に、「入」は正しく道を行ずるがゆえに、名づけて「入」とす。この心をもって初地に入るを「歓喜地」と名づく、と。(東聖典162、西聖典注釈版147) があります。初地は、菩薩の修道の第一段階のことで、仏道に最初の一歩を踏み出した時に大きな喜びがあるという意味で初地を「歓喜地」と名づけるわけで、その道を踏み外すことがないというのが不退転ということになります。「入初地品」の最後のところに、次のような問答があり、続けて引用されています。
問うて曰わく、初地、何がゆえぞ名づけて「歓喜」とするや。答えて曰わく、初果の究竟(くきょう)して涅槃に至ることを得るがごとし。菩薩この地を得れば、心常に歓喜多し。
 初地を歓喜地となづけるのは、「初地に到達すれば、最終的に涅槃に続く道に入ったことを意味しているから歓喜が大きいのだと、まず答える。そして次に譬喩を使って、歓喜の大きさを説明する「大海分取の譬喩」とよばれる所が続きます。 本来(出典)の十住毘婆沙論の文章は、
「(如以一毛為百分 以一分毛分取大海水若二三H 苦已滅如大海水余未滅者。如二三H心大歓喜)」(『十住毘婆沙論』)
   その読みは、「一毛を以つて百分と為して、一分の毛をもって大海の水、若しは二三Hを分け取るが如く、苦の已に滅せる者は大海の水のごとし。余のいまだ滅せざる者は二三Hの如く、心大いに歓喜す。」です。
 ところが親鸞聖人は次のように読み替えているのです。
「一毛をもって百分となして、一分の毛をもって大海の水を分かち取るがごときは、二三Hの苦すでに滅せんがごとし。大海の水は余の未だ滅せざる者のごとし。二三Hのごとき心、大きに歓喜せん。」
 大意は、「一本の髪の毛を百等分して、その百分の一の髪の毛で大きな海の水、それは、人間の苦をあらわすのだが、それを分け取ろうとする。『滅した苦は大海の水ほどになり、まだ滅していない残りの苦はわずか二・三滴であると』。 ようやくそこまで達した時、はかりしれないほどの大きな喜びがある。」
 これがこの譬喩の元々の意味です。これはわかりやすい譬喩です。我々も、しなければならない仕事があったとしたとき、仕事のほとんどが終わる位まで来ると、もうすぐ終わると自然と喜びが出てきます。
 しかし、親鸞聖人の訓(よ)みかたでは、「二三Hの苦すでに滅せんがごとし。」と、二・三滴を汲み終ったところになる。つまり苦はまだ二・三滴ほどしか滅していなくて、「大海の水は余の未だ滅せざる者のごとし。」であるので、苦はまだほとんど残っている状態である。ところが、たった二・三滴しか苦が滅していないのに「二三Hのごとき心、大きに歓喜せん。」となっています。苦の解決はつかず、まだほとんど全部残っているのに、汲みだした二・三滴ほどのところで心が大歓喜だと、そういう譬えに変わっています。
 私たちは自分の苦や迷いに直面すると、すぐには落ち込み暗くなります。また気を取り直して「明けぬ夜はない」と明るい未来を目指して生きていこうとします。
 一方パスカルは著書パンセの中で、私たち人間は「明日こそ幸せになるぞ、明日こそ幸せになるぞ、と死ぬまで幸せになる準備ばっかりして終わる」という我々の生き方の問題点を指摘しています。
 仏教と名の着くものの基本は転迷開悟です。「迷い」による苦の解決です。私たちは自分の迷いは大したことは無い、きっと未来に何とか解決がつく、理知分別の思考を総動員して努力することができるのが人間だ、それを目指して生きることが我々の在り方だと楽天的に思っています。
 そういう我々、人間存在の在り方を仏の目で見透かして「汝は凡夫なり」(観経、西聖典注釈版93、東聖典95)と言われています。
 仏の智慧、無量の光に照らされて自分の姿に気づくことが大切です。自分は迷ってないと思っている人には仏教の用はありません。人間の誇る自我意識の背後に潜む闇、理性・知性の分別の思考に潜む闇を聞法を通して知らされてくると、迷いという人間の在り方は「「水馬(みずすまし)がしきりに円を描いている」ように、その道行はエンドレスです。迷いを何年、一生懸命に繰り返しても、迷いには変わりません。過去からの生命連鎖の最先端にいる私、何億年迷ってきたのでしょうか。仏教でいう六道輪廻の迷いを繰り返している私(客観的事実というよりは目覚めの深まりから知らされる内容)。仏の智慧によって自我意識が照らし破られないことには迷いの連鎖の繰り返しです。弘法大師の道歌、「生まれ、生まれて 生まれて、生の始めに暗く、死に、死に、死に至して 死の終わりに冥(くら)し」はそのこと(暗い世界から冥い世界を経巡る)を示しています。
 迷いを超える方向性がはっきりすることは、救いを決定的にする要因なのです。その為に親鸞聖人は苦を解決する方向が定まった、水を二・三滴ほど汲みだしたところ、方向性が定まったところで心に大歓喜が満ちると表現しているのです。
 みずすましや尺取虫が一生懸命に継続して頑張っていることは認めますが、その方向性が流転の繰り返しであれば、いくら命がけに取り組んでも迷いの繰り返しです。そのことに気付いて(気づかされて)、成仏の方向性がはっきりすれば、残された仕事量がどれくらい多かろうと、方向性が決まるということは到達点に至ることは確実なのです。方向性の決定というのは、迷いの無限繰り返しに比べて、歩みの 99.99%終わったようなものです。量の大小ではなく方向性がはっきりするという質が大事なのです。

参考資料:仏暦とはどのような暦法か。また、2021年は、仏暦では何年にあたるか。仏暦(ぶつれき)は、仏滅(ブッダの没年)を基準とする暦法。東南アジアの仏教国で採用されている。ブッダの没年を1年とするミャンマーやスリランカなどと、没年を0年とするタイ・カンボジア・ラオスで解釈が異なるが、前者では2021年4月8日以後は仏暦2565年、後者では仏暦2564年です。

(C)Copyright 1999-2020 Tannisho ni kiku kai. All right reserved.