5月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2565)

 かつて外科医をしていた時、内視鏡手術が導入された時期で、私は数例経験した頃、管理職になり、その後は外科医としては手術をしないまま外科としての現役を終わってしまいました。開腹して3次元的に術野を見ていたものが2次元の画面を見ての手術に戸惑ったことを覚えています。2次元より3次元の方が情報量は豊富です。しかし、患者の体力的な負担の少ない内視鏡手術は術後の回復に大きな恩恵をもたらしました。術者にとっては立体的な情報の方がより安心して手術が出来ると思っていました。
 仏教の学びに関しても次元の違いということから考えることが分かり易いです。平均台の上で遊ぶとき横幅が狭いので二人の子供が真ん中で対面すると相手を落とすとそのまま進めますが、落とされると進めません。勝ち負けか一緒に落ちるかです。横幅が広い所(線から面への広がりがある)だと、勝ち負けではなくお互いに道を譲って共に我が道を行くことが出来るでしょう。
 私たちの普段の思考は、物事に直面して判断する時、善悪、損得、勝ち負けなどを判断して決断します。その時の思考は2元的(相対)分別ということが出来ます。仏教の智慧(無量光)は+αの次元の世界ということがより柔軟な思考が可能です。世間的知恵は「物の表面的な価値を計算する見方」と言えます。
 仏教の智慧は「物の背後に宿されている意味を感得する見方」ということができます。「背後に宿されている意味」は表面的には見えないのです。「有り難い」「勿体ない」「お陰さま」「不安」は見えない世界を表現しています。
 今回の新型コロナウイルス騒動は医療関係者にとって頭の隅に一抹の不安を引き起こしています。その不安の感情を渡辺和子(2.26事件の遺族)は著作「置かれた場所で咲きなさい」の中で、「人生にぽっかり開いた穴からこれまで見えなかったものが見えてくる。『順風満帆な人生などない』、私たち一人ひとりの生活や心の中には、思いがけない穴がポッカリと開くことがあり、そこから冷たい隙間風(漠然とした不安)が吹くことがあります。それは病気であったり、大切な人の死、他人とのもめごと、事業の失敗など、穴の大小、深さ、浅さもさまざまです。その穴を埋めることも大切かもしれませんが、穴が開くまで見えなかったものを、穴から見るということも生き方として大切なのです。『穴を埋める』ことにのみ心を奪われている私達の生き方に光を当てられます。私の人生にも、今まで数えきれないほど多くの穴が開きました。これからも開くことでしょう。穴だらけの人生だと言っても過言ではないのですが、それでも今日まで何とか生きることができたのは、多くの方々と有り難い出合い、いただいた信仰のお陰だと思っています。宗教というものは、人生の穴をふさぐためにあるのではなくて、その穴から、開くまで見えなかったものを見る恵みと勇気、励ましを与えてくれるのではないでしょうか。」と書かれています。
 コロナ騒動の「不安」を縁として開いた穴から見えるものがあるのです。まだ決定的な治療法がないし(ワクチンは90数%の効果が見込めるけど)、70歳を超えた私が罹患すると10数%の死亡率です。病院でお世話をしている超高齢者、有病者が感染するとまさに医療崩壊必発です。不安はあまり意識してなかった「死」が身近に感じられるからでしょう。仏教の目覚めの内容、「縁起の法」では私という存在は無我であり、無常だ、そして一刹那ごとに生滅を繰り返している、と教えます。
 生物学的に人間の身体はエントロピーの法則(濃度の濃いものは拡散する)を免れません。そこで内部的に壊れる前に自分で壊し、それを再合成することで身体を維持していることが分かっています。「死」を免れない身体を自転車操業みたいに一日24時間内部的に代謝(たいしゃ:生命の維持のために有機体が行う、外界から取り入れた無機物や有機化合物を素材として行う一連の合成や化学反応のことであり、新陳代謝の略称である)して維持しているのです。無我・無常はそのことで受けとめられるでしょう。死こそ当たりまえ、当然のことでした。また私の身体はガンジス川の砂の数の因や縁によって生かされ、支えられ、願われ、役割を演じることが期待されて生きているのでした。
 私の分別思考は長寿社会を迎え、「死」は先送りされ、そして「死を忘れた」の如く生きていました。そして人間として生まれたこと、育てられたこと、教えられてきたこと、生かされていることなど当然、当たり前にしてそのことも忘れての日暮をしています。その故か恩ということが死語になっています。恩とは私になされたご苦労を知る心です。仏教では恩を感じない存在を ”餓鬼・畜生” と言って、人間に成れてない、と教えます。私が40歳頃、公立病院の外科部長で赴任した時、仏教の師からのお手紙の中に「あなたがしかるべき場所で、しかるべき役割を演ずることは、今までお育て頂いたことへの報恩行です」を目にした時、仏教の御育てを頂いていたからでしょうか、「餓鬼・畜生であった。人間に成れてなかた、南無阿弥陀仏」と念仏したことを思い出します。
 普段の生活は「死」を忘れ、生きている身を当然・当たり前にして、餓鬼・畜生の如く取り込むことばかり考え煩悩を満たすことを喜びとして、善悪、損得、勝ち負けに振り回されていたのでした。
 道元禅師の言葉に「自己をならうというは、自己をわするるなり。自己をわするるというは、万法に証せらるるなり」があります、また清沢満之の、「自己とは他なし。絶対無限の妙用に乗託して任運に法爾に、この現前の境遇に落在するものすなわちこれなり」(「絶対他力の大道」)の下線部分は同じ趣旨の言葉と受けとめられます。よろず(万)の物柄が仮に和合して(縁起の法に沿って)私という現象として(固定した我はない、無我)あるがままに動的に無常として存在あらしめられている、ことを表現していると受けとめられます。
 私の「生きている身」はいかなる状況の元にも現実を受けとめ生きているのです、しかし、私の思い、自我意識は「思いの我」を生きていますので、現前の境遇を受け止めるのに苦労しています。「思いの我」は分別思考で無意識に深層心理(我痴、我見、我慢、我愛という末那識)、煩悩を潜在的に持っているからです。自分にとって都合の善いものは受け取れても、都合の悪いものは悩みの元になります。仏教では真土不二というように都合に良い悪いに関係なく、密接な関係性を持って存在していると教えています。身は引き受けているのに「思いの我」が受け取れないのです。
 仏の目覚めから私の分別思考を俯瞰すると狭い視点で全体があるがままに見えてない。そして思考に煩悩が潜在的に強く影響しているがために自業自得の様に私を苦しめ悩ましているのです。そんな私に「分別思考の小さな殻を出て、大きな世界(仏の智慧の働きの場、浄土)を生きよ」と南無阿弥陀仏となって働きかけてくれているのです。大きな視点で見ると、今、ここで「生きている身」の存在の背後に多くのお陰や願い、そして意味や物語を見いだすことが出来るでしょう。普遍的な宗教は気づき・目覚めで「存在の満足」を感得せしめるという共通点があると言われています。
 渡辺和子さんが言う、思いがけない穴から見える恵みとは、不安の背後にある、「無始以来、迷いの世界に流転している「思いの我」の実態に気付き、その姿を悲しむ仏の大悲」に触れるご縁となるでしょう。私が自己中心的に周囲の事象を分別していたが、周囲の事象から生かされ、支えられ、願われ、演ずることが期待されていたのです。私が周囲の事象を「問うということだけでなく、事象から問われている」存在だったのです。心の不安、悩み、虚しさは、既に与えられている事実があるにも関わらず、それらを「当たり前」として見過ごして(意識にのぼらない)しまっていることから引き起こされた現実でした。
 分別思考を絶対化して、分別の狭い思考を仏教では無明、光がない、闇と言い当てられています。分別思考の長短を見透かされ、自力の心を翻され、捨てるという廻心が引き起こされ、全体を俯瞰的に広く深く見る(3人称的ではなく、2人称的に)仏智の視点に導かれるのです。
 仏智は自己中心的に外の事象を問うのではなく、「周囲の事象から問われている」、「周囲の事象のいう声を聞く」という思考です。周囲の事象・環境が私を生かし、支え、願われて、「生きている身」が役割を使命として演ずることが期待されていたのです。仏より頂いた仕事として受けとめ、念仏して取り組むのです。住岡夜晃師の言葉「宿命を転じて使命に生きる、これを自由といい横超という」があります。受け身的な姿勢から、念仏して能動的に自由自在な働きを演ずるように導かれるでしょう。コロナ騒動の中でも、生きる死ぬは念仏して仏にお任せして、報恩行として取り組む勇気と励みを恵まれるでしょう。

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