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渡邉晃純師(清沢満之記念館長)の言葉(清沢満之記念館だより:2021年4月6日第43号)
 私の信念とは、申すまでもなく、私が如来を信ずる心の有り様を申すのであるが、それに就いて、信ずると云うことと、如来と云うことと、二つの事柄があります。この二つの事柄は、丸で別々のことの様にもありますが、私にありては、そうではなくて、二つ事柄が全く一つのことであります。『我が信念』(清沢満之著) この清沢先生が、如来を信ずることが二つでなく,一つであると云われているのは、ここに現に生きているということは、厳密には、私が「問うものというだけでなく、如来から問われている者」であるという「自力の心を翻(ひるがえ)し、すつる」(『唯信鈔文意』)という「廻心」が如来から要求されており、信ずるということは、「弥陀の智慧をたまわりて」(『歎異抄』第16章)信ずるということがあるのです。
 この私という存在は「問う者」から「問われている者」としてあることは、日常の日暮らしの中では、「空過」とか「悩む」というかたちで経験されることです。何故「虚しい」のか、何故「悩む」のか。「悩むようなこと」は、おそらくだれも歓迎しないことでしょう。にも関わらず日常生活では、これら「悩む」ことはさけることは出来ません。これは「虚しい」「悩む」ということは、実は既に与えられている事実があるにも関わらず、それらを「当たり前」として見過ごしてしまい、その結果、意識にのぼらないからです。
 その「当たり前」として見過ごしいくことを、仏教では無明というのでした。「知らない」ということにすら、気付けない、とでもいいましょうか。
 何故なら、「自己とは他なし。絶対無限の妙用に乗託して任運に法爾に、この現前の境遇に落在するものすなわちこれなり」(「絶対他力の大道」清沢満之)と述べておられるように、自己が「絶対無限の妙用に乗托して」あることに気付けないで、「当たり前」としていく、自己の存在への無知、この「問われているもの」としてあることへの気づきこそ、「罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがため」(『歎異抄』第一章)と、すでに教えられているのでした。(以上は引用)

 釈尊の目覚め、悟りの内容は「縁起の法」であると教えられています。それは大きな原「因」が「縁」に触れてはたらき(業)を引き起こし、その結「果」が生ずる。その果は次なるものへ影響をおよぼす(報)。「因」・「縁」・「業」・「果」・「報」と展開する法則です。その受けとめの一つとして私という存在はガンジス川の砂の数の因や縁によって私たらしめられているということです。そのことを身土(環境)不二ということもあります。私の身と周囲の事象(時間的、空間的、物理的、生物学的など)は一体の関係であるということです。
 一体の関係というと私たちの普通の受けとめは私の周囲(内部的にも)の多くの事象と密接な関係があると考えます。そこに潜む問題になかなか気付きません。唯識の思想ですでに指摘されていたのですが、近年ではマルチン・ブーバー(イスラエルの神学者)が「我と汝」の著書で指摘しており、私は細川巌師や志慶真文雄さん(沖縄の小児科医師)のご教授で知らされました。(以下、志慶真師の文を引用しながら田畑が註)

 ブーバーは『根源語とは、単独語ではなく、対応語である。』と述べ、いきなり対応語から話を進めている。
 そのため、この短い『根源語とは、単独語ではなく、対応語である。』ということばは、気にとめなければ読み飛ばしてしまいそうなほどである。しかし、このことばは仏教から言えば、大変重大な意味をもつ。つまり、キー・ワードである。なぜキー・ワードであるか。私たちは日頃、「自分」(〈われ〉)がいると思って生きている。 そして同時にまた、「自分以外のもの」(〈それ〉、〈なんじ〉)があると思って生きている。
 要するに私たちは、(私は私)、(それはそれ)、(あなたはあなた)と、先天的にバラバラに(私)、(それ)、(あなた)が存在していると考えている。それが私たちの正しいと思っている普通の考え方、感じ方である。もともと私がいて、あなたがいて、そして物があって、それはあたりまえのことだと、疑うこともないほど私たちは深く思い込んでいる。この先天的に(私)(それ)(あなた)が存在しているという考え方は、ブーバーが前提にしなかった「根源語とは単独語である」という視点である。
 するとまず、実体化した単独語〈われ〉、〈それ〉、〈なんじ〉があり、その単独語が関係づけられて〈われ―なんじ〉、〈われ―それ〉ができあがると考えることになる。すると〈われ―なんじ〉の〈われ〉と〈われ―それ〉の〈われ〉は同一の実体化した〈われ〉のままである。
 「根源語とは単独語である」という、世界は私とは関係なく単独にそれ自身として存在しているという物の見方は、必然的に「世界は人間のとる態度によらない。世界は一つである。」という結論を導く。これが私たちの常識的、日常的なものの見方である。
 ブーバーの「根源語とは、単独語ではなく、対応語である」ということばは、この私たちの「世界は人間のとる態度によらない。世界は一つである。」というものの見方は根底的に間違っているという衝撃のことばにほかならない。それは、私たちの世界観は間違っているという驚くべき指摘である。
 対応語とは「私とそれ(彼・彼女)(3人称)」と「私と汝(2人称)」という対応です。その対応によってブーバーは、『人間の〈われ〉も二つとなる。』という驚くべき事を指摘するのです。
 〈われ〉といったら一つであって、〈われ〉が二つなどということは、考えた事もなかったでしょう。〈われ―なんじ〉の世界を生きる〈われ〉と、〈われ―それ〉の世界を生きる〈われ〉とは、まったく異なる〈われ〉である。
だから〈われ〉は二つあると。〈われ〉が二つあるということは、〈われ〉が生きる世界が二つあるということである。「世界は人間が語る根源語の二重性にもとづいて、二つとなる。」と言うのです。(以上)

 身土不二と教える身と土(周囲・環境など)の一体性を考える視点の問題です。普通私は自己中心的に私の存在を固定してある(我」として(当たり前、当然)、周囲の事象を客観的に眺めて自分にとって好ましいものかそうではないか、善悪、損得、勝ち負け、利用価値の有無で見たり、どうでもよいモノへは無関心となっています。このことを「私が周囲の事象を問う」と表現しているのです。〈われ―それ〉と見て対象物を考える事になっています。その時、対象物は私と切り離した存在、3人称的存在ですから私が問われることはありません。ところが〈われ―なんじ〉と2人称的に見ると、親密な親子、夫婦、兄弟姉妹の関係で相手を見る時は他人事ではすまされません。相手の状況は私に影響を密に及ぼします。相手が良い状態だと嬉しいし、悪い状態だと心配です。
 私たちは普通〈われ―それ〉と〈われ―なんじ〉を使い分けているようにおもわれますが、厳密に見極めてみると、〈われ―なんじ〉として考えようとしているのは我が身が可愛いと思う我愛の変形態だったのです、相手を汝(2人称的)と見ようとしているのは、相手を通して回り回って我が身が可愛いということです。分別的思考で考える限りは自己中心的(煩悩に汚染されているから)な〈われ―それ〉になってしまいますよと仏は見透かしているのです。
 〈われ―それ〉の対応語を生きているのが普通の多くの現代人です。私を中心に据え、自分が問われることは無く一応安全な所に身を潜め、評論家の様に対象事物を批判的に評論します。自分の中に潜む煩悩性はあたかもないかの如く(自分に優しく)、良い人間を演じます。ある有名な評論家がマスメディアの議論で意見を求められた時、「反対の評論をするのですか、賛成の評論をすればよいのですか」と司会者に問うたと言います。弁が立つとどちらのことも言えるのです。
 「私が問われる」となると俄然、緊張して構えます。私が生かされている、支えられている、願われている、恩を被っている、役割を演ずることが期待されている、となると、傍観者で無責任で評論するわけにはいきません。ある集いでまわりまわって責任者の立場が順番で私に決まりそうな状況に似ています。仏教の「縁起の法」、「身土不二」で示す関係はそういう関係ですが、その決断は仏の智慧では好き嫌い、苦楽を超えて「私の果たすべき役割、南無阿弥陀仏」と粛々と受けとめることができるように導かれるでしょう。

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