7月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2565)

 鈴木大拙は明治以降で日本の文化、仏教文化を欧米に紹介することで大きな役割をされたことは研究者の間で認められていることです。その大拙は居士号です。
 居士(こじ)の意味は、出家せず、家にあって修行を重ねる仏教者の意味で用いられます。「拙」は「つたない」で劣っている様・巧みでない様を示します。大拙はより謙虚な相を示しています。
 大拙の「西洋の自由と仏教の自由」と題した文章に最近驚かされました。明治の初め西洋思想が輸入せられて頃、フリーダム(freedom)やリバティ(liberty)に対する訳語が見つからないので、当時の学者が仏教の言葉である自由を持ってきて訳に当てはめたそうです。しかし、西洋のフリーダムやリバティには、仏教でいう自由の義はなくて、消極性を持った束縛または牽制(けんせい)から解放せられる義だけです。それは東洋的(仏教的)な自由の義と大いに相違するようです。
 自由はその字のごとく、「自」が主になっている。抑圧も牽制もなにもない。「自(みずか)ら」または「自(おのずか)ら」出てくるので、他から手の出しようのないとの義であるのです。自由には元来政治的な意義は少しもなく、天地自然の原理そのものが、他から何らの指図もなく、制裁もなく。自(みずか)ら出るままの働き、これを自由というのです。
 自我意識の「思いの我」は成長の段階では、「大きくなりたい」「善くなりたい」「自分と他人の為に何かできる力を付けたい、と理想を追いかけ、仕事、勉強、運動に努力精進して向上を目指します。振り返って見るとそれは自由自在の方向を目指していたのでした。仏教の師も講義の中で若い我々に「君はそれでよいのか」と叱咤激励されました。浄土の教えは更にその先に成熟の道を教えていました。成熟とは自分が本当の自由自在な自己になることです。
 自由の本質は、松は竹にならず、竹は松にならずに、各自にその位に住すること、これを松や竹の自由というのです。山は山として、河は河として、その拘束なきところを、自分が主人公となって働くのであるからこれを自由という。自由とは人間だけではなくて、あらゆるものに「天上天下唯我独尊」といえることだと言われています。
 自由と放逸とを世間ではよく混同しています。放逸とは自制ができぬので、仏教でいう自由、自主とは正反対になります。仏教では放逸は全くの奴隷性(感情や煩悩の奴隷)であると受けとめます。人間は自由と放逸とを取り違えて、勝手我がままになる処があります。自分が主人公だと言ってやりたい放題をやる。しかしこれは自由のように見えて、実は逆にまったくの奴隷性であるというのです。ここに陥(おちい)らないためには、あるいはこれから抜け出すためには、一度我がままの自我意識は死なないといけない。自分で自分を邪魔するような自分を一度捨てることによってはじめて自由になるのだと言います。否定を通した肯定が本当の肯定という言葉もあります。江戸時代の禅僧、至道無難の有名な唱導歌「生きながら 死人となりて なりはてて 思ひのままに するわざぞよき」はそのことを教えているのです。
 更に驚くことに大拙は「人間は嘘つきである」というのです。人間以外の存在には嘘がない。それで死ぬ必要はないが、人間には虚偽がある。その虚偽の出るもとを見つけて、それを抑えておかぬといけない。これを死という。しかし、この嘘のできるのが人間の人間たるところで、(大拙の文意をここまで読んで、そんなに人間を決めつけてよいのだろうか、それだと仏教の教えを現代人は受け付けないのではないかと思った)  嘘のいえぬ天人や木石や犬猫では、人間としての価値はない。(大拙は一体何を言うのだろうか??、驚くことに、だれにうそを言うのかと思ったら、なんと)この場合の嘘というのは、「他人に対して嘘をつくということではなくて、「生きている身」の自分に対して嘘をつく、自分で自分を裏切ることです。」、とビックリするようなことを指摘されているのです。自分で自分に反逆するということです。竹は竹自身に対して反逆するとか、刃向かうということはありません。しかし、人間は、自分に対して自分が反逆するというところがあると指摘されます。
 自分が自分に嘘をつくというのは、たとえば、してはいけないと自分で分かっていながらも、欲望に負けてそうせざるを得ないということでしょう。それは自分に忠実ではないわけです。あるいは、利害得失を考えてこちらの方が儲けになるから、便利だからと言って、本当は正しい道でないかもしれないと思いながらもそちらの方を選んだりする。あるいは人間関係とか社会関係とか、そういう中での自分の立場や役割を考慮すると、本心とは違うけれども立場上そうは言えなかったというように、自分自身に虚偽を働かざるを得ないようなことだと思われます。
 つまり仏教で娑婆と言われるこの人間の集団世界で、やむなく嘘をつかざるを得ないような場合が多々あります。それが不自由(生きている身の感得する不自由)ということになります。そういう不自由を自覚するが故に、人間は返って自由でありたいと思います。そういう自分を抜け出したいと思います。そのためにはいっぺん、その不自由に死ななければいけないということになります。
 自由ということを考える時、住岡夜晃師の言葉を思い出します。「宿命を転じて使命に生きる、これを自由といい、横超という」である。宿命とは世俗ではどうしようもない私の現実という意味があります。それは、念仏の教え(横超)での現実の受けとめが自由自在(生きている身の)へと導かれるというのである。
 仏教の智慧で心の深層を照らされる時、第八識、阿頼耶識(註1.)を知らされます。「生きる身」の責任作用と受けとめることができるように思われます。
 曽我量深師は『大無量寿経』に説かれる物語の中に、生き生きと自分の中ではたらく「法蔵菩薩」を発見されています。「如来我となりて我を救ひ給ふ」「如来我となるとは法蔵菩薩降誕のことなり」(「地上の救主」)、「法蔵菩薩こそは如来の生死廻入の還相の願心に外ならぬ」(「浄土荘厳の願心と願力」)。
 私たちの流転的な日常生活においては、どうしても迷いに陥ってしまう状況があります。そのまっただ中へ、如来の方から私のところへ飛び込んできて、私たちが見失っている自分の心のもっとも奥深いところ、本来の心を呼びさまして気づかせてくださるというのです。「助からないものなればこそ、如来が助けようと行願なされる」(「本願の仏地」曽我量深)ということを示されています。
 自分に嘘をつかない自由とは法蔵菩薩の本願を受け止めて教えのごとく生きることだったと導かれます。
 「生きる身」の実存の責任とは誰にも取り替えられない一個の実存の責任感覚です。その責任感は、一切衆生を荷負(かふ)して永劫(えいごう)に歩み続けようと発願する法蔵菩薩の意味と重なります。この法蔵の志願は、どのような苦悩の実存であろうとも、逃げようとすることなく黙って担(にな)って生きる阿頼耶識と共通の意味があると感得したのが、曽我量深であったのです。

註1.阿頼耶識は、あらゆる意識や行為経験の一切を蓄積して、新しい意識作用を呼び起こしてくる作用があるから、その作用に名を付けたのであって、実体を言うものではない。誤解して、これを「霊魂のようなもの」と解釈する人がいるが、これは名の意味と実体とを混乱している。阿頼耶識という名前は、生命作用や意識作用を成り立たせている「本能」的な作用のことなのである。

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