これは京都の紫雲寺、伴戸昇空師の資料です。海の上に浮かぶように見える島を想定して下さい。大地に支えられた島です、海と波の関係に似ています。海上に見える島が「思いの我」です。島を支える大地を含めての全体が私の「生きる身」に相当します。今、ここにいる私の存在(身体、生きる身)は想像を絶する無量の因や縁、そして「いのち」の繋がりの中で生かされ支えられています、と釈尊は教えます。
 仏教は、キリスト教のように神が世界や人間を創造したというようなことは触れずに、常に「今」、「ここ」に居る私を課題とします。説話にそのことが示されています。マールンクヤプトラという弟子が釈尊に対して、「世界は未来永劫に存在するのでしょうか」「世界には果てがあるのでしょうか」「如来は死後も存在するのでしょうか」などの疑問をなげかけました。これに対して、釈尊は次のようにお答えになります。
 「あなたの疑問に対する答えを求めるのであれば、あなたはその答えを得る前に命が尽きてしまうでしょう。たとえば、ある人が毒矢で射られたので、みんなが心配して急いで医者を呼んできて、医者がまず矢を抜こうとしたら、その男が叫んだ。『この矢はどういう人が射たのか、どんな氏名の人か、背の高い人か低い人か、町の人か村の人か、これらのことがわかるまではこの矢を抜いてはならない。私はまずそれを知りたい』というのならば、その男の命はなくなってしまうでしょう。あなたの問いはそれと同じなのです。もし世界は永遠に存在するとかしないとか答えることができる人がいたとしても、その人にも生老病死の苦しみがあり、さまざまな憂いや悩みがあるのです。あなたの問いは、人間の本当の苦しみや悩みとは関係のないことです。わたしは説くべきことのみを説きます」「箭喩(せんゆ)経」
 現在の生物学、医学の知見を含めて、仏教の人間観を考えると、例えば、畑に野菜の種を植えて、縁が熟して発芽して野菜ができるのは種にその元があるということもできますが、種を支えている畑、大地の持っているいのちの営みも無量の寿(いのち)ということができるのではないでしょうか。私たち人間も大地のいのちの上に、生物進化の結果として人間という遺伝子をもって進化の最先端の人間として、過去の誕生日に生まれて、今日、生きているのです。そして未来の遠くない日に死(死は一つの通過点)がおとずれ、いのちの大地に戻っていくのです。死を心配する私はもともと無い無我、無常の存在です(海と波の関係)。
 人間の意識構造は、仏教の唯識思想においては、われらの意識の深層に「阿頼耶(アラヤ)識」と名づける意識を見いだし、そのアラヤ識に経験の結果が蓄積されて、新しい経験の可能根拠となっていると考えています。行為や経験が起こると、その影響(熏習〈くんじゅう〉)が次の行為・経験の可能性に何らかの変更をもたらすのです。その動きゆく可能性の蓄積の場所を、アラヤ識と名づけるわけです。アラヤ識は、その可能性(種子〈しゅうじ〉)と身体・環境を持続的に感覚する用(はたら)きである、といえるのでしょう。
 一人の人間には、その人独自の「生きる身」と、その人だけの一回限りの人生が与えられます。その人独自の業(註1)の蓄積が、その人独自の人生を引き起こしてくるというのです。それを「業報(ごうほう)」というのです。その業報を引き受けている場所がアラヤ識なのです。すなわち、後戻りも繰り返すことも、取り替えもきかないこの一回限りの人生を、責任をもって生きている主体が、アラヤ識なのです。そういう実存の責任とは(行為の責任としての倫理的責任ではない)、誰にも取り替えられない一個の実存の責任感、つまり、存在の責任感です。
註1.一つの行為は、原因がなければおこらないし、また、いったんおこった行為は、かならずなにかの結果を残し、さらにその結果は次の行為に大きく影響する。その原因・行為・結果・影響(この系列はどこまでも続く)を総称して、業という。
 その責任感は、一切衆生を荷負(かふ)して永劫(えいごう)に歩み続けようと発願する法蔵菩薩の意味と重なります。この法蔵の志願は、どのような苦悩の実存であろうとも、逃げようとすることなく黙って担(にな)って生きるアラヤ識と共通の意味があると感得したのが、曽我量深師です。「法蔵菩薩は阿頼耶識なり」というテーゼ(命題、提議)は、業報の場所たるアラヤ識を、迷いの人生の主体であるのみならず、その苦悩の実存を担う志願という意味もあると感得したということでしょう。表層の意識(思いの我)は、そのときどきの状況を映して移ろいゆくが、その経験の全体をいつも背負って生きているものは、一個の「生きる身」(無我で無常の存在)です。「生きる身」が自己自身の全体を自覚することは困難ですが、現実を受容しています。その主体に気づこうとする意欲が、如来回向の求道心なのだということなのではないでしょうか。その気づきによって「自らに由る」、すなわち自由人・自在人に導かれる仏道と受け取っています。
 仏説無量寿経では国王が世自在王仏(世に自在な仏)に出遇って出家修行して、阿弥陀仏となり全ての人が無条件に救わる(自在・自由人となる成仏の道)浄土教を説かれています。

8月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2565)

 仏教では私という存在をどう考えているかと推測しますと、『モリー先生との火曜日』(スポーツコラムニストの著者ミッチ・アルボムとモリー教授が死の床で行った「ふたりだけの授業」の記録)、にあるお話、「ミッチ、私は死にかけているんだよ」 16年ぶりに再会した恩師、モリー・シュワルツ教授はALS(筋萎縮性側索硬化症)に侵されていた。忍び寄る死の影。
「あと4か月か5か月かな」。だが、その顔には昔と変わらぬ笑顔があった。「この病気のおかげでいちばん教えられていることとは何か、教えてやろうか?」、老教授の生涯最後の授業が始まった。その中にある、「海の描写」である。
「この間おもしろい小ばなしを聞いてね」とモリーは言い出し、しばらく目を閉している。ぼくは待ちかまえる。「いいかい。実は、小さな波の話で、その波は海の中でぶかぶか上がったり下がったり、楽しい時を過ごしていて気持ちのいい風、すがすがしい空気−−ところがやがて、ほかの波たちが目の前で次々に岸に砕けるのに気がついた。『わあ、たいへんだ。ぼくもああなるのか』。そこへもう一つの波がやってきた。最初の波が暗い顔をしているのを見て、『何かそんなに悲しいんだ?』とたずねる。
 最初の波は答えた。『わかっちゃいないね。ぼくたち波はみんな砕けちやうんだぜ! みんななんにもなくなる! ああ、おそろし』。すると二番目の波がこう言った。『ばか、わかっちゃいないのはおまえだよ。おまえは波なんかじゃない。海の一部分なんだよ』」(以上)

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