9月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2565)

 仏のことを自在人とも呼ばれています。仏の智慧を身につけた者は自由自在に、まさに無碍道を歩むことができるということを表しています。釈尊はインドの小さな国の王子として生まれています。王様になる英才教育を受けて育つのですが、ある時、四門出遊の物語にあるように、お城の外の国民の生活を見て、生老病死の四苦の課題を自分のこととして感得された様です。
 仏説無量寿経(大経)には釈尊の自伝(物語)になぞって法蔵菩薩の物語が説かれています。国王が世自在王仏に出合ったのです。世自在王仏とは、この世で自在に生きている仏という意味です。皇太子として将来は国王になることが約束されていたのでした。国王になれば王としての苦労(釈迦族はその後、隣国の侵略を受けて滅亡している)はあるのでしょうが、一応その国では権力、財力、軍事力などトップで自在に指揮することの出来る立場です。しかし、世自在王仏に出合ったとき、国王以上に老病死をも超えて自在に生きていることに驚いたのでしょう。世自在王仏のもとで出家(国と家庭を捨てた)をして、法蔵比丘という修行者になったと説かれています。
 世自在王仏や諸仏の指導を受けて、全ての人の救われる道を長い間修行・思惟されて、遂に法蔵菩薩として全ての人の救いの道を見いだし、その内容を48の本願として説いて、その本願の働きの場、浄土を建立したのです。浄土に生まれた者は必ず滅度(涅槃、仏の世界)に導かれ、成仏する場なのです。
 仏の智慧の世界、浄土を生きる存在は、「念仏者は無碍の一道なり」(歎異抄)と言われるように世界を自在に生きる(自在人、自由人)ようになるのです。私たちが仏教を学び成仏の道(仏道)を目指すのは成仏(自由・自在人になる)するためです。私たちはそれを聞いても「別に成仏しなくてもよい」と反発するでしょう。しかし、私たちが体力を鍛えたり、勉強して知識を増やしたり、上級学校に進学して技術を身に付けたり、資格を取ったり、仕事をしてお金をためて不自由しないように目指していくのは、一つは形の変わった自由・自在を目指して生きている事だったのではないでしょうか。
 かってアメリカンドリームと言われたように、米国でまじめに努力し、勉強し、頑張れば、それ相応に報われて社会の成功者に成れる、という夢を追い求めて世界中から多くの移民が集まり、現在もまた多くの移民を受け入れているのが米国です。一つの夢が破れても敗者復活のできる国でもあります。私たちの発想は一つの夢が破れても、次こそは、明日こそはと言って、無始以来、夢を追い求め、明日こそ、明日こそと、求め続けてきたのではないでしょうか。しかし、江戸時代「売り家と、唐様に書く、三代目」という川柳があったように盛者(じょうしゃ)必衰(註1.)は平家物語にあるように、無始以来繰り返されてきたことです。
註1:『仁王経』の「盛者必衰、実者必虚(盛んな者はやがて衰え、満ちている者はやがてからっぽになる」に基づく。仏教にある人生観で、この世の無常を表している言葉。『平家物語』の冒頭にある「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理(ことわり)をあらわす(祇園精舎の鐘の音は「世の中に不変はないと言っているように聞こえる。沙羅双樹の花の色は、盛んな者は必ず衰えることを表している。思い上がった者は長く続かない)」は有名です。
 仏教では空過流転と言う言葉があります。明日こそ、明日こそと夢を追い掛けても老病死に直面する時、虚しく時間だけ過ぎ去った、生きても生きたことにならない、流転して空(虚)しく時間だけ過ぎてしまった、ことを表します。よく考えてみると、我々は、仕方なしに「流転させられている」のです。しかし流転「している」のだと口癖のように言いますが、それは間違いです。
 流転しているのではない、流転させられているのです。流転しようと思って生まれてきた人間はいないでしょう。仕方なしに流転させられている。平和を求めて戦争をしている。儲けようと思って損をしている。改良しようとして破壊しています。それが止まらないのです。無始以来つづけてきた空過流転は人間の業です。
 仏教では流転することができるのは菩薩だけだと教えます。菩薩はあえて流転する、「流転させられている衆生を大いに悲しみ自分の課題(利他のはたらき)とする法蔵菩薩」。流転する衆生をほっておけずに、苦悩する衆生の背後に寄り添って(一体となって)、それが如来が衆生となるという意味です。「往きし人 皆この我に 還り来て 南無阿弥陀仏と 称えさせます」(武内洞達)とうたわれるように、浄土真宗では仏が南無阿弥陀仏と、方便法身として涅槃より迷える私に来られて、念仏せしめていると味わいます。如来が、老病死を受け取れずに愚痴を言う衆生の背後に寄り添って衆生と一体となり、迷える衆生を如来に帰させしめ、生死(迷いの流転)を超えさしめるのが菩薩です。
 「宿命を転じて使命に生きる これを自由といい 横超という」これは住岡夜晃師の言葉です。自分の置かれた境遇を分別で小賢しく計算して、まさに宿命に翻弄させられる凡夫(小賢しい私は凡夫と思えないが、仏は私のことを凡夫と言い当てている)の私は愚痴を言うしかないのでしょう。しかし、自分の現実を南無阿弥陀仏の智慧(横超)によって正しく受けとめる世界を頂く時、これが私の引き受けるべき現実、南無阿弥陀仏と受けとめ、仏智によって気付く役割、仕事を、使命(報恩行)として粛々と果たすように導かれるのです。
 住岡夜晃師(昭和24年示寂)は戦後、口癖のようにおっしゃった言葉は、「念仏して自己を充実して国土の底に埋もるるをもって喜び(本懐)と為すべし」でしたと伝えられています。
 天皇を中心とした国家(お国)のためにすべてを捧げることを求められた、その国家が敗戦によってもろくも滅んでしまい、国民は文字通り生きるよりどころを失って右往左往する混沌の時代であったのです。しかし気がついてみれば、その滅んだ国土の底に、人間の作った国土を超えた、したがって時代や人を超えた本来の国土、本当のよりどころとなる国土があったのです。それが仏法(本願)であり仏国土でした。このように、国土の底に埋もれるとは、念仏して本来の国土に帰るという意味があるのではないかと思われます。
 「国土の底に埋もれる」とはまた、具体的には一切の名利を超えて、いわゆる“縁の下の力持ち”になることでしょう。念仏して自己を充実することこそ第一義の問題であると共に、危機に瀕した国家社会を救うたった一つの真実の道なのです。人はこの第一義の問題を忘れると、必ず名利を求めるようになります。
 “誰に知られなくてもいい”、黙々と自分の為すべき仕事にまごころを尽くしていける人だけが、真に国土を支えるに足る人です。名利心に目鼻をつけたような人が何人集まっても、国家社会の危機を救うなどといったことは全くありえないでしょう。『住岡夜晃先生と真宗光明団』より
 三浦梅園(江戸時代、大分県の杵築藩で一生を過ごされた思想家、医師)は60歳を過ぎてから「人生恨むなかれ 人知るなきを 幽谷深山 華自ずから紅なり」の書を残されています。最後の句は「私は私で良かった」との心意気に共感されたのでしょう。仏教の心に通じる言葉です。
 聖道門仏教では仏がこの世に菩薩として身を落として、衆生を指導すると考えるでしょうが、浄土門仏教では菩薩は迷える衆生・凡夫の背後に寄り添って苦悩を共に背負うと受けとめます。法蔵菩薩の五劫の修行の功徳の全てを南無阿弥陀仏に込めて如来(仏の世界から迷える私の所に来てくれている)されているのです。
 菩薩は流転する衆生の代表者です。本当の衆生は、法蔵菩薩である。普段は阿弥陀仏を本尊として礼拝しています。その礼拝する人の裏(背後)にいるのが因位の法蔵菩薩です。本当に五体投地して礼拝すべきものが、実は背後にあるのではないか。我々が代表しているのではない。我々がその中に見出される。法蔵菩薩という人間の中に、我々が自分に目覚める。法蔵菩薩こそ、真の我、我よりも我(人間)である。
 法蔵菩薩が迷える凡夫を大悲されて一体となり、迷いを超える道を本願として誓願を誓われ、救いの場として浄土を建立されたのです。仏の働きの場、浄土を生きる存在に導こうとされているのです。浄土では自由自在に生きる仏の智慧を頂くのです。
 私たちは自由自在というと自分の思い通り、わがまま勝手な生き方と思いがちですが、仏教では凡夫の思い通り、我が儘(まま)勝手(放逸)は凡夫が煩悩や感情の奴隷になっている相だと言い当てるのです。
 分別思考の私には本当の自由、「自らに由る」世界が分からないのです。法蔵菩薩の大悲による本願の中に人間の自らに由る、自由の世界を気付かされるのです。菩薩の悲願の中に我々は本来の自分を見出す。自分は菩薩ではないが菩薩は凡夫である私を見透かされているのです。

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