10月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2565)
世間では亡くなった人をこの世の延長線上の存在と見ることが多いです。生老病死の「四苦で苦しんだ人には楽になってもらうのがよい、それが幸せではないか」、と考えます。不幸の極み(?)の「死」、そして死後の世界でもせめて幸せになって下さいという発想が「ご冥福をお祈りします」の言葉です。
仏教では亡くなった人は、世間的な幸・不幸を超越して、生死を超えた「仏」となって、我々を導く存在となると仰ぎ見ます。
広島の平和の灯の前には、「安らかに眠って下さい、あやまちは繰返しませぬから」と刻まれています。
浄土真宗の某坊守(住職の妻)が「どうか眠らないで、見守ってください。私たちがあやまちを繰り返さないように」の方がよいのではないかと言われていました。
どちらの言葉があとに続く我々の「生きる姿勢を正す」でしょうか、南無阿弥陀仏。 合掌(2021/8)
以上の文章をfacebook で紹介したら外科の後輩の医師(北九州市)から、同日に投稿がありました。
日常から罰当たりな言動が多く、いつも反省ばかりしている小生です。仏教的な立場から『浄土真宗の某坊守(住職の妻)が「どうか眠らないで、見守ってください。私たちがあやまちを繰り返さないように」の方がよいのではないか』というお言葉は衝撃的ですらあります。
仏様という、時間・空間を超えて我々未熟な(特に私は)人間を導く存在を持てることは、人間の心に余裕を持てる支えになると思います。毎月、父の月命日に法要にお出でるご住職を母が何よりも大事にお迎えしている意味が少しわかった気がします。
俗世では、「安らかに眠って下さい 過(あやま)ちは繰返しませぬから」の主語は誰なのか?日本か?米国か?という論争で毎年8月には喧しいですが、レベルの低いそのような論争を超えたお話はとても新鮮でした。 学びをいただきまして、ありがとうございます。
<蛇足> そこでやめておけばいいのに・・・、ですが。
先日のアフガン崩壊・米軍輸送機にアフガン民衆が殺到する映像を見ますと、南ベトナム崩壊を思い出します。戦後の日本はダメなようです。『見守るだけでなく、正しき道へお導き下さい』にすべきで、問題先送り・事なかれ主義・優柔不断の人たちに罰当たりの教えをしていただきたいです。
日頃世事に忙しいく精を出して、仏教とは縁がほとんどなさそうな言動をしている彼の文章を読んでちょっとびっくりすると同時に、仏教の土徳を有した家族であることが思われました。毎月住職さんと対話があることから仏教や住職さんとの接点が多いことが思われます。
彼の「お言葉は衝撃的ですらあります」の言葉が多分異質な世界に触れた素直な驚きでしょう。私が大学生の時、浄土真宗のお話に触れた時の驚きと同じではないかと思われます。その驚きを再度記します。
「卵からひよこへ」
仏教の師に初めて会った時。仏教の教えの原理を教えるたとえ話に出会ったのです。私達は生まれたままでは、卵の殻の中にいるような存在ですよと。私達、殻の中に居るなんて思いもしませんが、この殻が分別思考という意味です。自己中心の思いの分別という殻なのです。私が中心に居て周りを見る、これは役に立つかな、立たないかな、これは好きか嫌いか、これは私にとって善か悪か、などと分別してみているのです。まさに自己中心の殻の中、この私は「幸せ」を目指して、幸せのためのプラス条件を増やし、マイナス条件を減らしていけば、きっと「幸せ」になれると思う(計算している)のです。その時に私にとって善か悪か、損か得か、勝ちか、負けか………、どうしても気になるのは世間的な関心事です。
しかし、この善悪、損得などを考えて生きていっても、その事に振り回されながら、卵はどうなるかというと、卵の殻の中に居る限り、老病死、まさに卵は腐って卵の死を迎えるしかないのです。
卵(私)は腐って死ぬ為に生まれてきたのかというと、決してそうではないのだと。卵は親鳥に抱かれて、親鳥とは、良き師、良き友、親鳥に抱かれて熱を受ける。これを仏教では教えという、南無阿弥陀仏( 汝、小さなカラを出て、大きな世界生きよ )の教えだ。この教えを受けているうちに、殻の中に居ながら私達は、黄身と白身が育てられ、ものを見る目、考える頭、食べるくちばし、羽ばたく羽、歩む足ができて、まさに教えによって育てられていく、育てられて時期熟して、ヒヨコになって殻を出た時、初めて大きな世界(仏の世界)があるという事がわかる。それまでは分別の世界が全てだと思って生きて来ましたから、それを超えた世界に出会い仏の世界のあることを知る、ヒヨコになって初めて、私が分別という殻の中にいたな〜、と知らされるのです。
ヒヨコはさらに教えを受けながら親鳥になるという事が仏になるという事です。
私は22才のとき、初めて仏教の教えを聞いたのです。二つびっくりする事がありました。一つは私は22年間分別思考の生活で、それを整理して俯瞰的に考えたことも無かった、この先生は私の22年間の生活をどこかで見ておられたのではないか、私の生きざまを図星で言い当てられた、ちょっとびっくりしました。もう一つは、私は世の全体を見ていると思っていたのに先生は、小さな殻の中ですよと、言うのです。それを超えた大きな世界があるのですよと。
私は「私はその大きな世界に一度出てみたいのです」と質疑応答の時、質問しました。先生は「毎月一回、こういう会をしていますから。1年続けてみてください。」と仰いました。言われたように毎月の会座に参加しました。私は一年続けたところで、私は「仏教の世界はまだ分かりませんが、興味深い世界だなぁと思っています」と先生に言いますと、「田畑さん、3年続けたら分かりますよ」と言われ、その3年が、もう約50年間になっています。今は師との出遇いを感謝してもし尽くせません。
仏教では生まれる前と、死んだ後をどう考えるか、浄土の教によって知らされることですが、人間は皆関係存在である。網の結び目のように全てに繋がっているように関係している。
身体は生まれてから飲んだり、食べたり、吸ったりしたもので出来上がっています。
遺伝子は生命30数億年の連鎖の最先端という時間軸があります。自我意識や思考様式は生まれてから出会った人間関係、読んだ本、学んだモノによって形成されています。
現在の私は無量の因や縁の関係した存在で、固定した私はなく、無我であり無常である。今、仮に無量の因や縁が和合して私が現象の如くに存在しています。現在より前(生まれる前も含む)の私は、無量の因や縁が和合した存在であった。死後も形態はどうなっているかは分からないが、何らかの無量の因や縁の和合の存在であろうと思われます。即ち、今の私は因縁の和合の存在、過去も因縁の集合体の存在であったろう。未来も因縁の集合体の存在であるだろう。それらはこの世の私からの分別の認識では把握できません。ここまでは現代人の科学的な合理思考とは矛盾なく理解できる受け止めです。
ここで仏教の受けとめを考えてみます。仏の智慧(無量光)に照らされて気付かされる、私という存在は有限な知恵で思考の浅く・狭いこと、そして煩悩(欲)まみれで、分別思考に執われている、迷いの存在です。
その迷いはいつから始まったのか、を考えてみると、それは無始以来、迷いに迷いを繰り返してきた結果の「今」と思えるのです。迷いの深さ、迷い極まりない闇、無明である事を、身震いを持って、体解せしめられる時、仏を仏とも思わなかった過去を南無と懺悔して、この世での仏縁に南無阿弥陀仏と感謝せずにはおれないでしょう。
そこに人間に生まれた物語を自然と感得するのです。
人間に生まれた「仕合わせ」を思い、この世で生死の生身の業を念仏して燃焼し尽して、生かされ、支えられていることで私の果たす役割、使命、仕事として往生浄土の歩みを生き切るのです。そして親鸞は「臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証する」と言われています。
「念仏する者を浄土に迎えとる」の教えに「お任せ」して1日、1日を今日が最後の日という心意気で生きてゆくのです。往生浄土したものは迷いの輪廻を解脱して必至滅度の願で必ず成仏せしめられると説かれています。仏は迷える衆生を救うためにこの世に菩薩として身を表し私を教化するために還相されるのです、親鸞は法然上人を「阿弥陀如来化してこそ本師源空としめしけれ ……」と讃えています。 |