11月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2565)

 人間の苦悩は、私の「現実」と私の「思い」の間に差があることが苦になるのです。
 私の思い(自我意識)は物事を思い通りに進めて行きたい(管理支配したい)のです。
 想定外のこと(病、自然災害、願い事かなわず、人間関係の摩擦な)が起こると、私の「思い」は戸惑い、悩むことになります。
 京都大学の霊長類研究所でオランウータンが神経難病になり、一時的に寝たきり状態になり、背中に褥瘡(床ずれ)ができたそうです。同じような状況が人間に発生すると、意識のしっかりしている人は「困ったなあ…、もしかすると入院治療を受けないとならないのではないか、もしかするとよくならないかもしれない」、と心配をします。
 しかし、自我意識のある霊長類は人のような高次脳機能がないので、褥瘡について心配する気配が全くないそうです。霊長類は「生きる、生きている身」を受容して生きているのです。悩んだり、困ったりというそぶりを全く示さないそうです。人間だったらいろいろ悩みます。まさに「思いの我」が悩むのです。
 欧米の動物園などでは褥瘡が発症すると治療が大変ということもあり、安楽死(本当に安楽かは?)させるそうです。そのために治療経験の記録がないそうです。京大では治療・看護チームを作り、治療・看護・リハビまでしたそうです。その結果、そういう事実が分かったのです。その報告を読んだ欧米の研究者が驚いて称賛したそうです。
 哲学者の言葉に、「人間が悩むのは事柄(事実)ではなく、事柄に対する思惑である」、があります。動物的な「生きている身」は種々の現実を受け止めて受容して生きて行くのです。しかし、「思いの我」(自我意識)は直面する物柄を分別しては、都合の良い悪い、好き嫌い、善悪、損得、勝ち負け、価値の有無などで喜んだり悲しんだり、苦悩したりします。まさに思惑に振り回されています。
 私の身体や心・考え方はどうして形成されてきたかを考えると、「生きる(生きている)身」は過去の食べたり、飲んだり、吸ったり(呼吸)したもので出来ています。「思いの我」の自我意識は過去の成長の過程で学んだり教えられた日本語、見聞した事柄、人間関係、経験、読んだ本から育てられた思考様式です。私のものでない外の物柄が今の私を作り上げているのです。すなわち「私」や「私の作った物」ではない無我です。仏教は全宇宙の存在は関係存在であると教えます(縁起の法、事事無礙法界)。
 仏教の智慧は「物の背後に宿されている意味を感得する見方」と言うことができます(世間的な知恵は「物の表面的な価値を計算する見方」)。私という存在のありようを仏の智慧で見る時、無量・無数の関係性の中に存在することに気づかされます。普遍的な宗教は「存在の満足」に目覚めことを教えているのです。しかし、私達は今、ここに存在することを当たり前、当然の事として、そのうえで、何か,面白いこと、楽しいこと、珍しいこと、心地よいこと、得になること、楽なこと、勝ちになることなどを追い求めているのです。ハイデェッカーは我々のこの日常性(日常的思考)を「市場に群がるハエ」と言っています。その生き方はどんなに長生きしても知足にならない、それは空過流転、生きても生きたことにならないよ、と忠告しているのです。
 自由とは本来仏教用語で「自らに由る」という意味です。竹は竹になり、松は松になるのが自然なこと、自ら然(しか)らしめる道理です。人間が人間に成ってゆくことが自然なことです。
 神学者の森本あんり(1956年生まれ、牧師、国際基督教大学教授)は、自由とは本来、自分の欲望の赴くままに生きることではない。古典的な理解では、むしろそれは隷属であって、自由とは自己統治意味する。人は、生まれながらに自由なのではなく、習慣と学習と徳育によってはじめて自律し自由になる。人間の欲望には限りがなく、世界は有限である。だから人間が近代的な意味で充足することはあり得ない。人生には、自分の手で何かを「掴み取る」だけでなく、「与えられる」という感謝の感覚が枢要である。文化の深みには、宗教が織り込まれているのである、と言っています。
 ローマ時代の哲学者エピクテトス(奴隷の両親の間に生まれるも主人に認められ哲学を学び、哲学者となった)は、自分の属性や周囲の状況をよく観察して、自分の力が及ばない事柄(私の権内にある、自分の力でどうにでもできる)と私の権内にあることをはっきりと区別して、「私の権内にない」ものへの誤った愛着を断って、自分の考えや意志を正しく用いることの大切さを教えています。
 私は小学校高学年から青春時代までに、自分の属性(国、親、家業、住所、能力、時代、容姿など…仏教では宿業というようなもの)に不満を感じたことがありました、エピクテトスに言わせれば「まったく愚か」でした。いくら愚痴を言って自分で自分を傷つけ暗くし、うつ反応に貶(おとし)めるものを……。自然や社会や他人といった事柄を正しく理解し、それらとのかかわりの中で人間として自然な本性に相応しく生きるために、自分の考えや意志を用いることを薦(すす)めているのです。
 江戸の末、外来語の freedom , liberty の訳に仏教用語の「自由」を当てたのです。
 そのために現代の自由には「我がまま、放逸など」の意味が含まれています。仏教用語の自由からは歪められています。現代人の「我がまま、放逸など」は煩悩や感情に振り回された奴隷状態というのです、自由とは本来の意味とは違っています。
 仏教での自由は、「自らに由る」、私の由って立つ処は関係存在として「私」たらしめられている「私」です。自我意識の分別で周囲を見て比較して自分の立場を考えるのではなく、仏の教えの鏡の前に身を置き、生かされている、支えられている、育てられている、教えられ導かれてきた私の自ずからなる役割を感得して、これが今、果たすべき使命、仏よりいただく仕事と受け止め、念仏して粛々と働くのです。
 百人が百様に「今、ここで精一杯生きる道」があるのです。江戸時代の思想家、医師の三浦梅園(国東半島両子山のふもとに記念館あり、梅園は朝来の西白寺(臨済宗)をたびたび訪ねています)の書「人生恨むなかれ 人知るなきを 幽谷深山 華自ずから紅なり」の「華自ずから紅なり」は「私は私で良かった」の意味で、「今、ここを精一杯に生きる」時、死をも超えて知足に導かれることを教えています。。
 世知に長けた、能力の優れた、恵まれた人だけが救われるのではなく、凡夫が凡夫のままで「人間に生まれてよかった、生きてきてよかった」と生ききる道を教えるのは浄土(念仏)の教えです。
 その為には我がままかってに煩悩や感情に振り回される奴隷状態になるのではなく「自らに由って生きるのです」。仏教者の住岡夜晃は「宿命を転じて使命にいきる これを自由といい横超という」の言葉で念仏の教え(横超)によってすべての人が、一億人が一億人なりに救われてゆく道を示しています。
 浄土の教え、念仏は私に対する、「汝、小さな分別の殻を出て、大きな仏の世界を生きよ」の呼びかけで生きる姿勢を正すものです。念仏を聴く時、それは呼び覚ましの呼び声なのです。念仏する時、私が仏の働きの場になり仏の世界(智慧の言葉等)を憶念することへ導かれるのです。
 自らに由って、自由自在に生きるためには、仏の智慧を聞くことで私の分別の思いが翻されることが大事です。そのためには一歩前を歩く、よき師・よき友の念仏を讃えている話を聞き、自分の分別思考が局所的であり、煩悩に歪められて奴隷状態になりがちであることに気付くことが大切です。しかし、誰も自分の思いが翻されるのは「嫌い」なのです。よき師・友との出遇い、懇切丁寧なお育てをいただき、その人格性に触れることによって大きな転回の契機となるでしょう。仏法は人から人へと伝わってゆくのです。

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