2月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2565)

 講題:仏教が考える幸福について、(羽田信生師、「幸福とは何か?について」より)シアトルの仏教寺院でセミナーがあった。参加した大学生から「私は幸福について論文を書いております。いろいろな宗教の幸福の定義を比較しております。仏教の幸福をどのように定義するか教えていただけませんか」と質問された。私は次のように答えました。
 「もしあなたが個人の幸福という問題を忘れることが出来たなら、それが仏教における「幸福」です。もしあなた個人の幸福の問題が問題でなくなったら、それが仏教における幸福の定義です」
 さらにその学生は私に「それでは、どうしたら自分を、自分の幸福を、忘れることが出来るのですか」と尋ねました。
 「もしあなたが意識的に自分を、あるいは自分の幸福を、忘れようとしたら、それは出来ないでしょう。しかし、もしあなたが自分よりもっと力強い何か、自分の幸福よりもっと重要な何か、に出遇ったら、あなたは自分を、自分の幸福を、忘れることが出来るでしょう」
 多くの人は自分の幸福は、自分の個人的な要求をいかにうまく満たすかによると信じています。しかし私達の幸福は実際にそういう事によるでしょうか。いいえ、私はそうは思いません。人はより自己中心的になればなる程、より不幸になるでしょう。
 一般的に言って、不幸な人とはどのような人でしょうか。不幸な人はいつも自分の幸福だけを案じていて、自分を忘れることが出来ない人です。
 道元禅師のことば「仏道をならふというは、自己を習うなり」に続いて「自己を習うといふは、自己を忘るるなり、自己を忘るるといふは、万法(まんぽう)に証せらるるなり」があります。
 自己の真の姿は何か、自分が何ら愛着するに値しないものであることに気付きます。そうすると自己愛と、自己中心性から解放されてゆきます。そして力強い私達を圧倒するものに出遇うのです。それは菩薩の心(自覚覚他する存在)です。それ以外に私を忘れさせるものはないでしょう。菩薩の心は自分の幸福を忘れて全て衆生の幸福を願う心です。
 私達が自分の幸福を追求する限りは、決して自分の幸福は実現することは出来ないのです。しかし私達が菩薩の心(生死を超える仏の智慧)に出遇う時、自分の幸福を忘れることが出来ます。しかしながら、この自己を忘れることが、実は私達の真の幸福の体験です。
 真の幸福(あるいは自己を忘れること)は私達が能動的に実現、あるいは「証する」ことが出来るのではありません。それは私達の行的な能力に何ら頼ることなしに、仏あるいは法の側から実現されるのです。そのような理由で、禅師が「自己を忘るるといふは、万法に証せらるるなり」と言う文章の中で「証せらるるなり」という表現を使うのです。

 「自己を忘るるというは」曹洞宗東海管区教化センターHPの資料による「仏道を習ふといふは、自己を習ふなり。自己を習ふというは、自己を忘るるなり。自己を忘るるといふは、萬法に証せらるるなり、萬法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。」
 自己を習うというのは、自己とは何であるかの究明であります。しかし究明すると申しましても、それは結局自己を忘れることであり、自己の否定でもあります。仏道修行者にとりましては自己のあるべき姿とは「自己をわするるなり」であります。つまり無我になりきることであります。自我を捨て去ることではなく、自己と他己との対立を捨て去ることであります。そうすることにより「萬法がすすみて自己を修証する」境地が開けるのであります。
 「萬法すすみて自己を修証するは悟りなり」についてでありますが、これは前段の「自己をはこびて」の逆でありまして我執妄想を離れ、対立観念を持たず、萬法と一体になって天地万物の中の自己であるということをわきまえ、天地自然の道理に従って生きるならば、自ずとそれが悟りであるということであります。自己の実践がすべて道理にかなっているならば、悟りが自ずと身に現れるのであり、悟りの体顕であります。天地万物同根として自己が何であるかということの究明であります。
 「自己をはこびて、萬法を修証するを迷いとす。萬法すすみて、自己を修証するは悟りなり。」(道元禅師の言葉)曹洞宗東海管区教化センター)

 「自己をはこびて」ということは我見我欲、我をはって偏った考えでもってものごとにあたるということであります。自己の外に萬法があると対立的に考えて萬法、つまり悟りを究め尽くそうとするのは迷いであり、萬法を究め尽くせるものではありません。それではものごとの真の姿は把握できないのです。萬法は自己の内の問題であり、自己は萬法の内の一つにすぎません。「萬法を修証する」とは諸法、天地自然の道理、真理つまり「悟り」を実践によって悟ろうとすることであります。我見我欲でやることは、たとえそれがどのようにすばらしい実践であったとしても、自分を毒し、他人を毒して邪悪迷妄なことになるのであります。俺が俺がという間は人間本物ではないのです。
 「萬法すすみて自己を修証する」、正しい実践体験の世界に没入するとき融通無礙の自己が実現し、自己を会得し得るのであります。そのとき「自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり」であります。身心脱落とは「俺が俺が」という我見我執の凝り固まった固執的概念を捨て、自他を超越することであります。身心一如という体験的世界に没入することであります。
 ここで道元は「他己」ということばを使われました。これは自己以外の自己をあらしめているすべてのものをいいます。他己にもすべてそれをあらしめている意義があるのであります。そして「自己即他己」であり、自他は不一不異一如ということになります。

頼住(よりずみ)光子(東大人文社会系研究科倫理学科教授:)
 「万法に証せられる」というのは、「万法」とはあらゆる存在です、宇宙全部全体にその証(あかし)をせられているんだというのが自己だ、「証」というのは、証明される、明らかにされるということで、これは仏法でいうところの「悟り」という意味なわけです。
 要するにありとあらゆるものによって悟らせられているから、私が私を忘れることができる、ということで、要するに私たちは自分というものが何か確固たる一つのものとしてあって、自分と他人というのが別個のものとして、また自分と他の存在というものが別個のものとしてあるんだ、というふうに考えがちなんですけれども、仏教の立場からは、そうではなくて、ありとあらゆるものが、実は一つのものとしてお互いに関係し合い働き掛け合って、その時々にこの「わたし」とか、相手が、その時々にそのようなものとして成り立っているのであって、関係が変われば、また時間や空間が変わっていけばどんどん変わっていくんだという、そういうことを言っているわけです。
 そういうあり方として、私たちがあるということを、例えば仏教の少し専門的な用語で言いますと、「縁起(えんぎ)」であるとか、「空(くう)」であるとか、そういう言い方で説明をしていることになります。

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