3月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2565)
伊藤元先生の講義録の中で、若い頃「仏法の話を聞いて、分からない、分からない」としきりに言っていたら、ある先輩が「あなたは聞いているつもりかも知れないが、本当に聞いていないのだ」と言われたという。
私はその話を読んで一瞬、「どうして??、聞いているのに」と思ってしまいました。言葉の始めにある「聞いて」と後ろにある「聞いて」は同じであるのにと思っていました。
仏法は私たちの分別の理解を超えた大きいものだ、分かることを超えている(無分別知)。それを無理やり分別の理解の箱の中に、狭いところに入れようとしているから聞こえてこないのです。仏法を自分の理知分別による理解の中に落とし込もうとして不可能なことをしているのです。
お寺などで法話を聞く時、法話の中で言っていることは私のことだ、この私のことだ。法話で言いあてていることは私のことだ、本当にそうだな、「言われることが本当の私の相(すがた)だ」、と受け取れることが、「本当に聞いた」「本当に聞こえた」ということです。「分かろう、分かろう」と努力するのは自分の分別思考の理解の中に圧倒的に大きなものを取り入れ、閉じ込めようと不可能な事をしているということです。
日本語の原則として「大きなものは述語になれない(西田幾多郎先生の言葉と聞いています)」に通じています。例えば「私は仏を大事にしています」「私は親を大事にしています」など発言に感じ取ることが出来ます。私が親を思う心と私が自分の子供を思う心を考えた時、本当に親には申し訳なかったという思いがあります。私が親を大事にできるのは、私が親を超える知恵、相手に対する思い、思索の深さ、体力・財力を持っている事実においてはじめて可能だからです。
仏法無視、親不孝の自覚においては、仏や親を粗末にして本当に申しわけないと懺悔するしかありません。上記の「聴いているのに、本当に聞いてない」の指摘を補足する知人の講演録を紹介します。
「聴」と「聞」について(「他力の信心」 森田真円 より、一部田畑の改変・補足説明あり)
「聞く」ということについて、浄土真宗では、「聴聞」ということがいわれます。この「聴」と「聞」について、往くを「聴」といい、来るを「聞」というといわれます。「聴」というのは、こちら側から聴きに往くことで、「聞」というのは、向こうから聞こえてくることです。同じ「きく」という字だけれども、意味合いが少し違うということです。
聴かなければ始まらない。そこで私たちは「聴」があって、それに応じて何か聞こえてくるという「聞」があると考えます。なぜかといいますと、私たちは普段の生活がそうなっているからです。情報を理解してその上で行動し結果を得るというのが私たちの普段の生活パターンです。
ですから、聴かなければ始まらない。聴くことを積み重ねていくことに応じて何かしら聞こえ、何らかの結果が得られる。これだと普段の生活パターンの思考と同じだから分かりやすいのです。私たちは仏のはたらきも、そういうふうに捉えようとしてしまうのです。いわば、私たちの目線で仏さまのはたらきを捉えようとしてしまうのです。
ところが、親驚聖人の著作は「教信行証」ではなく、「教行信証」です。ここに決定的な違いがあるわけです。仏(教)が先に行動して(行)、私のところに届いて(信)、私が結果(証)に至らしめられる、というのが親驚聖人が仰っていることです。(教⇒行⇒信⇒証の順番、仏の働きが仏智として私に届いて念仏・智慧の受けとめとなる)
確かに「聴」がなければ始まらないけれども、実は、聞こえてみたら聴いたからではなかったということです。聴かなければ始まらないけれども、聞こえてみたら私が聴いたからではなかった。ややこしいことを言いますが、ここが大事なところです。聴かなければ始まらないですが、聞こえてみたら、私が聴く「聴」ということを積み重ねた結果、「聞」こえてきたのではなかった。既に私のところに届いていた(如来より「聞けよ、我が名を呼んでくれよ」のお呼びが遠い遠い古(いにしえ)よ
り届いていた)ものが聞こえてきたということです、だから、普通の思考とは方向が違うということです。
仏教学者の言葉に「聴こうとしなければ聞こえてこんぞ、聞こえてきたのは聴いたからではない」(村上速水)があります。
聴かなければ始まらないけれども、聞こえてみたら、私が聴いたからではなかった。既に私のところに仏のはたらきは届いていた。私は、聞法していく、その先に結果が何かあるというふうに、そういう思いにとらわれていた。だから、「さかさまに聴いとりました」ということです。
親驚聖人が法然上人のところに行かれて出遇われたのも、この「方向が逆だった」ということでしょう。仏さまのほうから私のほうにはたらいていた、届いていた。南無阿弥陀仏(この心は、「汝、小さな分別の心を出て、大きな仏の智慧の世界を生きよ」、の呼びかけ)は、仏のはたらきそのものであったということです。それを私のものとして捉えようとしているのです。私たちはすぐ私有化してしまうのです。名号、南無阿弥陀仏を己が善根かのように称(とな)えようとしている。そういう方向は、「さかさまであった」というふうに、ある聞法者が表現されたのです。そして「こればっかりは頭のよしあしとは関係ないのです」と仰っていました。「頭のよしあしと違う」ということは、私が頭がいいとか悪いとか、私が何かを積み重ねていくということではないということです。ここに浄土教の特記すべき特色があります。それは受けとめる人間の条件、状況を問わない、無条件の救いの実現する道なのです、老病死に切迫し苦悩する臨床の現場でも救いが実現します。
「他力の信心」とは
私たちは、今の私の心はだめだけれども、いつか信心を得た私の心になった時に、「よし、分かった。もうこれで大丈夫だ」というふうに捉えようとしてしまうわけです。それは、仏さまのはたらきを、情報を理解して行動して結果を得るという自分の生活パターンで捉えようとするからです。
仏は、そんなことは一つも仰っておられません。たった「今」「ここで」なのです。
「たった今ここで、ありのままの私を救う」のが仏さまのはたらきです。「たった今ここで、ありのままの私を救う」という仏のはたらきのほうを頼りにしないで、頼りにしているのは私の心の受け取り具合なのです。今の私の心はだめで、いつか信心を得た私の心になったときにOKだと思っているのは、これは、仏を頼りにしているのではなくて、「私の心」を頼りにしていることです。私の心の納得具合を頼りにしているわけです。ついつい私たちは、「私が分かったんだったら救われる。私の心が何か成長して、そういうことが分かるような心になったら救われる」というふうに仏のはたらきを捉えていこうとするわけです。
そうすると、悪戦苦闘、もがくのです。仏のはたらきを頼りにしないで、私の心のありさま、私の心の納得具合、いわば私の心の中をいじるのです。
「自力といふは、わが身をたのみ、わがこころをたのむ、わが力をはげみ、わがさまざまの善根をたのむひとなり」(一念多念証文、島地聖典19−7、東聖典541、西聖典注釈版688)
とあります。ここに出ている「わがこころをたのむ」というのが、仏のはたらきを頼りにしないで、私の心の納得具合、私の心の在り方をよりどころにしようとしているということです。そうではなくて、たった「今」「ここで」という、この仏のはたらき、働きの成就によって私は救われていく(いる)のです。
このことを、風呂に洗面器を浸けるという例で説明しましょう。お風呂の湯というのは仏の働きそのもので、いわば本願の温かいお湯です。そして、洗面器は私です。逆さにした洗面器の中が私の心の中です。私がこれを上から真っすぐに押していくわけです。すると、私の上も下も横も仏のはたらきだらけだということが分かります。にもかかわらず、洗面器の中、私の心の中は、いつまでたっても空っぽです。「これではいけない」というので、また一生懸命上から押すわけです。ぐっと気張って押して、周りは温かいお湯だということは何となくわかるけれども、私の心の中は、いつまでたっても空っぽのままです。
どうすれば、これが一杯になるかというと、引っ繰り返せばいい。どういうことかというと、上から押している手を放せばいい。手を放せば、お湯のほうからこの洗面器を引っ繰り返して、洗面器の底に付いている私の垢とかごみも一緒にしてザーッと満たしてくださる。これを本願のはたらき、本願力・他力というわけです。 |