4月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2566)

 仏教(特に浄土教)は今の自分以上に何か身につけて立派になっていく学びではありません。
 某新聞に新しく僧侶になる人への講義の内容がありました。
 無量寿・無量光は私の思いを超えた異質なものです。私の事情や関心、都合の思いを超えて大きなものが、実はもうすでに皆さんの中に、皆さんを超えて働いているのだということ。その大きなものに出遇って行くということがこの場(サンガ)の大きな学びなのです。
 もうすでにお一人お一人の中に働いているものが有るのです。そこに眼を開かせていただく。立ち返らせていただく。もうすでに賜っているもの、働きかけているものが有る。その事に向き合って常に呼び返され立ち返されて、そこに根源力を頂いて立ち上がっていくような、そこから新しく生まれるような自己が見出せるかどうかです。
 “今ある自分“というものは一体どういうものなのか?
 このあるがままの存在を問い、そこに無限の意味が見出せてくる道です。身をもって、生活を通して自分が問われ自己が明らかになっていくこと。真宗の学びの要点は、教理ではなく「自己」を学ぶことです。

 私の在り様(存在の事実、在り様)……「器世間と衆生世間」(梶原敬一小児科医師)より私達は、世間の中を生きるだけでなく、私達は世間を生きている。世間には器世間と衆生世間がある。世間というのは、私達が生きている関係を表すのです。
 器世間といったら山であったり川であったり自然のもの、水であったり空気であったり、私達が生きているその環境を表すのです。衆生世間というにはそこで生きて出遇っている命と命の関係です。様々な命との出遇いを衆生世間と言う。それを生きているのです。
 それはただ生きているのではなくて、受用しているのです。受用は「じゅゆう」と読む。この用という字は「ゆう」と「よう」の二つの読み方がありますね。「よう」という時には「もちいる」という。用事をするとかの「よう」ですけど、この「ゆう」というときには、用(はたら)きです。作用という時にこの字を書くでしょう。用事でなくて、作用(さよう)と読みます。けどこれは用(はたら)きの事です。受用(じゅゆう)というと、用(はたら)きを受けることを表すのです。
 こういう世間を生きる事を受用(じゅゆう)すると。どういう事かと言うと、水を飲んだり空気を吸ったりしてそのことが、私自身の身体を作っていくということ。私が生きていることは様々なものを外からのあらゆるものを受け取ってそれを自分自身の命として形としてそこに生きているということを受用(じゅゆう)と言います。それだけじゃない。ものを見たり、音を聞いたり、様々な声を聞いたり、外とのやり取り、関係を生きたりしてそれが私自身を作っているということを受用(じゅゆう)という。
 だから生きるというのは世間を生きるというふうに言いますけれども、決して勝手に生きているわけじゃなくて、世間によって作られている私。そのことによって顕かにされたものは、私自身が私というだけではなくて、この世界と命を分け持ちながら生きているという事に外なりません。さらに言えば、器世間として言われている分だけじゃなくて、衆生世間として言われて人と人との関係の中であっても、自分と繋がって生きている人も皆私です。
 その人達からの用(はたら)きを「此処」の「今」というところに結びつけていくものこそが「私の身」という事です。私に身がある。この身が命というものの形をとっていますけど、この身は世間として表現されるものが、私というものに用いて一つとなった。その時に世間が身になるのです。世間が私という身を作っていくために、私そのものに用(はたら)かなければならない。
 そこに世間と身と備える者が如来だというのです。如来とは何かというと、いつもいつもいのちといのちの間につながりを持たせるもの、関係を作らせるものが如来なのです。如来というのは面白い言葉でして、如より来ると書きますけど、それを如より衆生に来る(阿弥陀如来、南無阿弥陀仏)というふうに言うのです。私より先にあって、何かあるということ。(講題「いのちのゆくえ」より)

「乞食と天使」 (スペインの民話)
いつもよく働く靴屋のもとへ、あるとき、天使が現われました。 乞食の姿になって・・・。
 靴屋は乞食の姿を見ると、うんざりしたように言いました。
「おまえが何をしにきたかわかるさ。しかしね、私は朝から晩まで働いているのに、家族を養っていく金にも困っている身分だ。ワシは何も持ってないよ。ワシの持っているものは二束三文のガラクタばかりだ」
そして、嘆くように、こうつぶやくのでした。 「みんなそうだ、こんなワシに何かをくれ、くれと言う。そして、いままで、ワシに何かをくれた人など、いやしない・・」
乞食は、その言葉を聞くと答えました。
「じゃあ、わたしがあなたに何かをあげましょう。お金にこまっているのならお金をあげましょうか。いくらほしいのですか。言ってください」
靴屋は、面白いジョークだと思い、笑って答えました。
「ああ、そうだね。じゃ、100万円くれるかい」
「そうですか、では、100万円差し上げましょう。ただし、条件が1つあります100万円の代わりにあなたの足をわたしにください」
「何!? 冗談じゃない! この足がなければ、立つことも歩くこともできやしないんだ。やなこった、たった100万円で足を売れるもんか」
「わかりました。では、1000万円あげます。ただし、条件が1つあります。1000万円の代わりに、あなたの腕をわたしにください」
「1000万円・・・!? この右腕がなければ、仕事もできなくなるし、可愛い子どもたちの頭もなでてやれなくなる。つまらんことを言うな。1000万円で、この腕売れるか!」
「そうですか、じゃあ、1億円あげましょう。その代わり、あなたの目をください」
「1億円・・・!? この目がなければ、この世界の素晴らしい景色も、女房や子どもたちの顔も見ることができなくなる。駄目だ、駄目だ、1億円でこの目が売れるか!」
すると、乞食は言いました。
「そうですか。あなたはさっき、何も持っていないと言ってましたけれど、本当は、お金には代えられない価値あるものをいくつも持っているんですね。しかも、それらは全部もらったものでしょう・・・」
靴屋は何も答えることができず、しばらく目を閉じ、考えこみました。 そして、深くうなずくと、心にあたたかな風が吹いたように感じました。 乞食の姿は、どこにもありませんでした。

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