5月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2566)

 普通、私たちは時間は過去から現在、今に至り、そして未来へと連なると理解しています。
 いろいろな自然災害、人災(ウクライナ危機など)、事件でたまたま被害を被る立場になった人が「私は悪いことをしてきたわけでないのに、なんでこんなことになってしまったのか」と発言され場面が多く放映されます。その発想には過去の結果が現在、今になるという考えが出ています。そして未来は、まさにまで来てない「未来」です。
 仏教では、未来とか現在とか過去という言葉のとおり、ものごとは未来からやって来るのだと考えています。やって来るものが「今のところ」まだやって来ていないのが未来です。それがやって来て現に現れてここに在るのが現在です。その現在あるものが過ぎ去っていったのが過去です。ですから仏教の時間論は、未来から現在に来て、現在から過去に過ぎ去っていくと受け止めています。その中で、私たちに不都合なことや想定外のものもやって来るわけです。だから「生きていく」上での課題は、やって来た想定外のモノや都合の悪い事象をどのように受け取るかです。
 個人主義という私たちの考え方は自分中心の考え方です。自己中心の分別思考では都合の悪い事象は受け取るのを避けたいと考えます。しかし、人生の現実は逃げも隠れもできない「やって来るもの」をどうするか、この課題に私たちが答えることがないと、「人生苦なり」、で愚痴を言うしかないでしょう。
 私たち多くの者は前記のような考え方で生きていきます。自分の思い通りにしたいとか、自分の夢を実現したいとかですが。実現できるものや克服できる課題は当然、解決のために努力して良い方向に向けてゆきます。しかし、個人の努力ではいかんともならない現実に直面することもしばしば起こります。
 その場合はどうするか?
 その時は仏様の異質な視点というものに耳を傾けることも大切になるでしょう。大きな宗教の視点から物事を見ていくということにならないと、重い課題に振り回されることになります。仏の智慧は現前の事象をどう受け止めるか、場合によれば克服したり、乗り越えていったら良いか、という視点を提示するでしょう。私たちの依って立つ分別思考の科学的な思考、合理的な思考で間に合わなくなるからです。
 その意味で、私たちは宗教の世界に導かれて仏様の教え、仏様の視点、仏様の眼差し、そういう自分の考え方とは別の視点(人生を大局的、俯瞰的に見る異質な視点)から物事を見て行くということがないと、やって来る、来たもの(人間関係の不和、自分自身の老・病・死、想定だにしなかった事件、人災・天災・戦争など)をどう乗り越えていったら良いかという答えを見つけだせないで潰されてしまうでしょう。
 具体的な私の「生きている身」は多くの因や縁に生かされ支えられ生きています。まさに「『今』をいただいて生きているのです」、まさに種々の無数の因縁が和合して生きている身が成り立っています。「生きている身」は不平不満を表明しません、時に「痛い」「かゆい」「苦しい」と訴えますが、「困ったな」「どいうすればよいか」「良くならないのではないか」「死ぬかも知れない」という不安や心配はしません。
 釈尊の悟りの内容として「縁起の法」があります。それは「生きている身」はガンジス川の砂の数の因や縁(無記,註1)によって構成・成立していて、一刹那ごとに生滅(死)を繰り返している(死に裏打ちされて今の「生」がある……「死」が当たり前で「生」はあること難しである)。固定した「我」はない、無我、無常であるのです。

 註1.無記とは個々の因や縁を善悪、プラスマイナスなど分別の価値判断をしない……無分別知

 「生きている身」の私は本来、現実を受容しているのですが、自我意識は本来無記である因や縁を分別で判断して、分別したことで種々の苦悩が生じて心が穏やかでなくなるのです。
 未来から私のところへやって来るものは私の善悪の判断とは関係ないところからやって来るのです。私がどんなに真面目に清く正しく生きていたとしても、悲劇的な出来事に遭遇するということは人生には避けがたくあります。それを「私は何も悪いことはしていないのに何でこんな目に会わなければならないんだろうか」と、自問自答してもそこからは何も答えは出てきません。それは倫理・道徳の世界で答えが出る話ではそもそもないのです。そういう倫理・道徳を超えたものがこの人生には働いている。倫理・道徳の中で答えを見つけようとすると、余計に自分が悪いと自分を苦しめることになります。そういう時に仏様の視点が貴重になるのではないでしょうか。
 ガンを患い、術後に再発して病状が進む中で「死に向かって進むのではない、今を頂いて生きるのです」と書かれた鈴木章子さんの言葉があります。哲学者の「生きている間は、絶対に死なない。」「死んだ死なんか考えない」という詭弁的な言葉もありますが。普遍的な宗教(地域、時代、民族を超えて展開した、悟り、気づき、目覚めを教える宗教)は今、ここで「存在の満足」の目覚めへ導く教えだと言われています。
 それは一瞬一瞬刻々と「『今』を頂いて生きるのです」、これは「人生とは取り返しのつかない決断の連続である」(養老孟司の言葉)に通じています。
 このことに驚きを持って気付く人は、まさに「自由」・「自らに由る」生き方を刻々と生きていくことに導かれるでしょう。そして無数の因や縁によって支えられ、生かされている私は「生かされている、支えられている」ことによって果たし役割・使命に目覚めて行くのです。仏教者はそれを仏さんからいただいた仕事と受け取って励(はげむ)のです。
 前記ことは、私が40歳頃、仏教の師から頂いた手紙の一節の「あなたがしかるべき場所で、しかるべき役割を演じるということは、今までお育て頂いたことへの報恩行です(師の教えに従ってない私を懺悔するしかありません、南無阿弥陀仏)。」に通じることを思わしていただきます。
 幽霊の絵には足がありません。手を前に出して、髪は後ろになびいています。足が地についていない。足を現実の地面にしっかりとつけてないことを示しています。手を前にして「明日こそ」と「未来」を心配しながら、後ろ髪は過ぎ去った過去を後悔しているのです。まさに私の心の実態を示しています。
 その私に仏はよき師、善き友を介して「南無阿弥陀仏(汝、小さな分別の殻を出て、大きな仏の世界を生きよ)」と、呼び掛けよ、呼び覚ます、はたらきを展開しているのです。
 世間の常識の世界は、過去があり、過去の結果が現在(今)である。そして未来がある。過去や未来を心配するのを持ち越し苦労、取り越し苦労と言います。仏教では「今しかありません」、過去は終わったことです、念仏で切りなさい。未来はまさに今から来るのです。その受けとめが問われているのです。
 現実を煩悩まみれの分別で色付けせず、「いただく今」を私の引き受けるべき現実、南無阿弥陀仏、と受け止め、仏智に照らされながらしっかりと思考して決断をして歩むことを仏は教えているのです。

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