6月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2566)

 仏教はインドのお釈迦さん(世尊)の悟りの経験から始まったと考えます。
 しかし、世尊は私が始めたとは言わないでしょう。私は生老病死の四苦を超える「法」に目覚めた(悟った、気づいた)だけで、それはいわば物事の道理、私の気づきの前に厳然と存在していた「法」に気付いただけである、と言われるでしょう。あるがままをあるがままに、事実を事実のままに見ることによって、私たちの普通の分別思考で苦悩していることへの解決の方向性を見出したのです。我々の普段の分別思考を超えた思考、無分別の相対分別の次元を超えた法、智慧に目覚めたことで分別思考の苦悩を超えることができたのです。
 物事の道理、あるがままの自然(じねん)、真理のことを仏教では真如、如実、如如、実際などとも訳されたり、「あるがまま」「そのような」「如く」の意味と示されます。仏典では、不変で何ものの影響も受けない「真理」「摂理」を意味します。存在するそのまま、現在するそのままの状態を、禅定(ぜんじょう)や三昧(ざんまい)で体得することが仏道の目標とされています。「如」は、初期仏典では仏教の真理としての四諦説や「縁起説」をさす場合があり、「法」の性質そのもの法性ということがあります。漢訳では如説、如法、如理、法性法身とも訳されます。
 仏の悟りの世界から、我々の生活の現場に現れた存在を「如来」と言います。南無阿弥陀仏は名前(名号)となって具体的に我々の前に現れた仏です。それは私たちに「はたらき」としてはたらく(作用)のです。
 どういう作用か? #1.成り立たせているはたらき、#2.報(し)らせるはたらき。
 仏教では阿弥陀仏 ( 無量光(智慧)と無量寿(いのち、慈悲) )を「法性法身(ほっしょうほっしん)」と「方便法身(ほうべんほっしん)」の二種の法身で教えています。
 「法身」とは? インターネットで検索すると、法身仏 ( 真理そのものであるような仏 ) とは、一切の分け隔てを離れた仏の無分別智の領域をいい、仏陀のさとりの本体です。そこでは知る者と知られる者が一つであり、生と死、自と他、愛と憎しみ、善と悪といった二元的な対立を完全に超え、時間的・空間的な制約もない、物事を対象的に捉え、分別し区別することを特徴としている言葉では表せない領域です。それを仮りに「一如」とも「真如」とも「法性」とも「法身仏」とも「法性土」ともいいますが、そこでは生死(しょうじ、迷いの意味)もなく、往来の相も離れていますから往生ということばさえもありません、と説明されていました。
 「法性法身」は物事を成り立たせているはたらき、自然の道理としての「縁起の法則」。私という存在は無限・無量な因や縁によって「生かされている」、「支えられている」、まさに賜った身。「生命進化の最先端を今、生まれて生きている」、この宇宙、地球に根差して生かされている。私の力ではない大いなるはたらきの中に、今日の私の存在を知らされます。
 私が「 私 」と言っている自我、自我意識が今日の「我」です。その「我」を宿している身体を成り立たせている、構成しているものは自然の道理(今までに食べたり、飲んだり、吸って来たものに由る)です。意識の思考内容は全て成長過程で他から学んだ事柄、集大成の賜物です。縁起の法則(力)によって存在しているのです。自我意識はそういう存在を有らしめている背後の秘められた世界に目を向けようとせず、知ろうとしない、気づこうともしなくて、当たり前、当然のこととして無視しています。
 その自我の「我」に対して自然の道理が発動してくるのです。あなたを存在有らしめている事実に目を覚ませと「報(し)らせるはたらき」、を「方便法身」(存在の事実・真実を私に知らせようとはたらく)と表現します。阿弥陀如来、南無阿弥陀仏 ( 汝、小さな分別の世界を出て、大きな仏の世界に目を覚まして、大きな世界を生きよ、の呼びかけの言葉 ) は私たちが仏を認知できる具体的な方便法身なのです。
 仏の智慧のはたらきで初めて「無我」に気付かされるのです。無我は何もないではない、それだと虚無になります。自我意識が考えているような「我」 ( 私物化している我、私の身と心、私の財産 ) は無いということです。
 私物化した時は多くの場合、物事は私の思い通りになりやすいのですが、現実は思い通りになりません。自然の道理に乗托して成り立っている今日の私です。私のものという形はとっているが私物ではなく「賜りたる我」です。如来が「はたらき」だということは、無我を「報(し)らせるはたらき」ということです。
 「報(し)らせかた」はどうなっているのか?
 「はたらき」が私になってくださるのです。清沢満之は「落在(らくざい)」、「自分の居場所がみつかる」と表現しています。
 清沢満之の「如来は私に対する無限の慈悲」「無限の智慧」、「無限の能力」と著作『我が信念』で言われています。如来の「無限の慈悲」に遇(あ)わせていただくと落在ということが明らかになる。「落在」とは「落」は落ち着く、定まる。「在」は居場所です。本当の居場所が見つかるということです。
 無限の慈悲なるが故に、落在の世界を知らされる。「無限の智慧」なるが故に、「無我なる存在であった」ことが知らされる。「無碍の能力」なるが故に、私たちは自力無効、思いが間に合わないことを知らしめられる。「落在」、「無我」、「自力無効」。これは如来が私になってくださった姿なのです。
 仏の智慧が私の思考の主体となった、一体と成ったということです。
 暁烏敏(東本願寺の僧侶、清沢満之の弟子)は、生活の苦しさ、悩みを吐露する人に向かって、「それはな、アンタがアンタの居場所でないところで生きとるから、苦しいのやぞ」と言われていたそうです。
 仏の智慧が私の思考(煩悩に汚染された相対分別思考)を目覚めしめる働きをするのです。仏の智慧を頂くことを「信心を頂く」というのですが、信心は私の思考をイキイキさせる生き物みたいなはたらきです。聞法によって私たちの主体が転換するのです。
 私の日々の生活は自我意識を主体として生きています。自我の相対分別思考は迫りくるマイナス要因(自分自身の老病死、損・負け・悪など)を受けとめるのに苦悩するのです。そのために「いつも行き詰まる」のです。その私が法話を聞くことを継続して仏智に触れる歩みによって、如来(仏の智慧)が私の主体になってくださるのです。しかし、煩悩の生身を生きる私の自我が無くなるのではないのです、自我意識は死ぬまで続いて行くのです。そのために如来が主体になってくださることと、自我が主体になって生きていくこととが、反復するのです。主体の転換が反復相続されていくのです。
 私の煩悩まみれの相対分別思考は、異質な仏の智慧に照らし出されて初めて、次元の低い相対分別思考で煩悩に汚染されていること、そしてその結果、迷いを繰り返している(自力無効)ことを知らされるのです。そして迷っては目覚め、迷っては目覚めを生きている間は繰り返してゆくのです。その目覚めは不思議と迷いを大きく包み込み安心(あんじん)へ、知足へと導いてくれるのです
 「往きし人 皆この我に 還り来て 南無阿弥陀仏と 称えさせます」(武内洞達)
 一歩前を歩んでくれたよき師、友が往生浄土して仏になって、仏の世界から迷える私を大悲されて、この世に方便法身(南無阿弥陀仏)として還って来て(還相)、私の口から一体の念仏となって出て下さる。それは私をお念仏の大きな船に乗せて往生浄土せしめる相なのです。

超世の悲願聞きしより
我らは生死の凡夫かは
有漏の穢心はかわらねど
心は浄土に遊ぶなり

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