7月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2566)
人はなぜ「自分の命は自分のもの」と思い込むのか(養老孟司氏2022.3.17)を読みながらの文章です。
解剖学者の養老孟司先生の「子どもが自殺するような社会でいいのか」という問題提起をされています。
なぜ今、子どもたちは死にたくなってしまうのか。社会をどう変えていけばいいのか。
日本の伝統的な思考には、「自己」という概念がない。そのことを反映するかのように、日本の子どもたちはアメリカの子どもたちと違って、自分の人生を自分で選択したり、自分で決定したりすることをしてこなかった。しかし、西洋の考え方が導入された現代社会を生きる大人は、子どもたちに「個性を伸ばせ」「自己実現せよ」と求める─。このような自己の問題は、日本人が明治維新以来抱えているストレスだと思われます。
そもそも「生まれてから死ぬまで一貫して変わらない私がいる」という感覚が、日本人にはそぐわないことなのです。今日の日本の大人にとっては、当たり前の感覚だと思いますが、これは明治以降、西洋からきた考え方であり、日本の伝統的な考え方とは違うのです。 養老氏によると、もともとヨーロッパでも、多神教の世界(*)ではこういう「私」はなかったと思われます。
例えばデカルトの「我思う」ってあります。これをラテン語(*)で書くと、「我思う」はいきなり「Cogito(コギト)」となるのです。Cogitoは、一人称単数現在の動詞です。「私は考える」と言いたいときに、ラテン語では主語は要らないのです。英語でいえば 「 think 」 のみということです、主語がない。これは日本語と同じで必要がなかったのです。確かに日本語も、主語をあまり使いません。
普段の会話で「私は……」と話すことはあまりありません。
* 多神教の世界:神道の日本、インド、古代オリエント、古代ギリシャ・ローマなど。* ラテン語:古代ローマ帝国の公用語。現在のフランス、イタリア、スペイン語など、すべてのロマンス諸語の母体。
英語で「 I am a boy 」って言うときに「 I 」を必ず付けますけど、その「 I 」も本当は要らないです。「 am 」とくれば、主語は「 I 」に決まっているのです。ラテン語でも入っていなかった「私」が、いつから入ってきたかというと、多分中世、キリスト教からです。
一神教の世界には、「最後の審判」があります。この世の終わりに、全員が神様の前に出て裁きを受ける。そうすると、そのときまで存在し、過去から一貫している自分がないといけない。裁きを受けるまで、一貫した自己がないといけない……。「貸したお金を返してください」といったときに、「借りたのは私ではありません」と反論されると困るから、借りた私に名前が付けられています。生後50日の私と、73歳の今の私では、まったく違うとなれば、どっちが審判の場に出るのか、ということになります。
最後の審判がある人々にとっては、生まれてから死ぬまで一貫した私というものがないと困るのです。そういう思考が要請されてしまったのです。その「一貫した私」という考えが、明治以降、日本に輸入されて、今「個性を伸ばせ」という教育になっているのです。本来「自己」という土壌がないのに、急に「個性を伸ばしなさい」という教育になってしまった。
日本の子どもは、パズルもペンの色も母親の好みの影響を受け、人生の選択もなるべく多くを周りに委ねたい。そういった周囲の意向を受け入れて生きていくのが心地いい日本の子どもにとって、「個性を伸ばせ」「自己実現せよ」という親や社会の期待が、プレッシャーになっている可能性があるのです。
自己の問題の裏にあるのが、「命は自分のもの」という考え方です。「自己がある」という考えが「命は自分のもの」という考え方につながります。確かに「自己」がなければ「自分のもの」と思いようがないです。「命は自分のものだから、自分の好きなようにしていいんだ」と思っています。自分の身体や命が「自分のもの」であるという暗黙の了解ができています。それが常識になってします。でも、そんなことは、どこにも決められていないのです。
もし子どもに、 「命は誰のものなのですか?」と聞かれたら、どう答えればよいでしょうか。世の中には誰かのものであるものと、誰のものか分からないものがあります。例えば、月は誰のものですか? 命が誰のものであるかを問うのは、それと同じくらい、おかしな質問です。今の社会の常識を優先してしまうから、質問自体が変だということに気がつかない。それは「なぜ人を殺してはいけないの?」というのと、同じくらいおかしな質問です。
自分の命は自分のものではないのですか? 私の命は、私のものではない、命はもらったものです。別に自分で稼いで、生まれてきたわけじゃない。私が勝手にいじっていいものじゃないということでしょう。自分が今生きているということ自体を、いじる権利が自分にはない……。仕方がないから生きているのですよ、僕(養老)なんか。みなさん、自分一人の力で独立して生きているわけではないでしょう。何かそういう当たり前のことを議論しなくてはならなくなったのが、変なんですよ。本来、そういうふうに言葉で議論するものではないんですよ。
80歳前後になると一番の気がかりは死です。最近、知り合いの死によく遭遇します。若いころ解剖をやっていたから、死んだらどうなるかは身体的な面では分かっています。私が死んでも私には関係ない。そう思うと非常にラクです。でも「誰が困るのか」と考えると、まず連れ合いが困ります。皆さんが死んで困るのは周りの人。「子どもに迷惑はかけたくない」。そう思う人、多いでしょう? 人生は結構人のためにあるんです。最近の教育は自己実現とか言って自分を立てます。私(養老氏)は昭和12年生まれの古い人間ですから、自分の命は自分のものではなかった。小学生のいじめ自殺のニュースなどを聞くたびに、私たちが暗黙のうちに「自分の命は自分のもの」と教えすぎているからではないかと思います。「自分のものなら不愉快だったら死んだっていい」。そう考えても不思議ではない。子どもが死んで一番悲しむのは親ですが、それがどうも伝わっていません。
「個性豊か」「自己実現」「自分の人生」なんてことばかり考えていると、人との関係がどんどん薄くなります。人間関係はうるさいから若い人は嫌います。最近、若い人が結婚しませんが、それは、我々がずっとこの方向に向かって進んできたからです。世界全体でみると人間のやることは筋が通っているものです。
人間は 意味の世界に 閉じ込められている。自然の中を旅して使うのは感覚です。ところが都会に住んでいると、使っているのは感覚ではなく意識、頭の中で生活しています。部屋は一定の温度に保たれ、昼夜の別なく明るく、段差なく歩ける。そんな環境で生活しているから、都会の人は感覚を刺激されることを嫌がります。
頭の中の意識は言語化され、乱暴に概念に置き換えられ、意味(情報)を作り出す。概念がなぜ乱暴かというと、あなたと私は違うのに「同じ」、人としてくくってしまうからです。これができるのは人間だけ。動物にはできません。「同じ」は人間と動物を分けるキーワードです。病院に行けば(特に健診では)医者は患者を診ず、検査結果で診断・治療します。手続きに銀行へ行くと「身分証明書お持ちですか?」。本人がここにいるのに。感覚まで情報に変えてしまう時代にコンピューターが活躍し、現物の人間はノイズになっています。
生から「感覚」がどんどん外れていった結果、みんな「意味の世界」に閉じ込められています。若い世代は「意味がないものがあることはおかしい」と思っています。しかし、自然や感覚に意味なんかありません。かつては「いるだけでいいよ」と言われているお年寄りがいました。意味のないところを見ないと、現代社会の解毒剤にはならないのです。
現代の私たちは無意識にこの「同じ」を使いこなしていますが、かつては「違う」ものを「同じ」として扱っているという意識が明確にあったのではないかと思います。皆さん、思い出してみてください。英語を習った時に「the apple」、「an apple」定冠詞と不定冠詞の違いを教わりました。ここにも感覚と意識の違いがよく出ています。この違いは英語ができてきた時にはもうあったはずです。「the apple」はあのリンゴ、そのリンゴ、このリンゴ、具体的なリンゴです。「an apple」はどこのどれでもない一つのリンゴ。これは頭の中のリンゴ、意識の中のリンゴです。「an apple」と言えば、英語を解する人間は全員、頭の中にリンゴを思い浮かべることができます。こんな芸当は動物にはできません。 (続く) |