8月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2566)

 (先月の続き)生から「感覚」がどんどん外れていった結果、みんな「意味の世界」に閉じ込められています。若い世代は「意味がないものがあることはおかしい」と思っています。しかし、自然や感覚に意味なんかありません。かつては「いるだけでいいよ」と言われているお年寄りがいました。意味のないところを見ないと、現代社会の解毒剤にはならないのです。
 現代の私たちは無意識に「意味の世界」の「同じ」を使いこなしていますが、かつては「違う」ものを「同じ」として扱っているという意識が明確にあったのではないかと思います。皆さん、思い出してみてください。英語を習った時に「the apple」、「an apple」定冠詞と不定冠詞の違いを教わりました。ここにも感覚と意識の違いがよく出ています。この違いは英語ができてきた時にはもうあったはずです。
 「the apple」はあのリンゴ、そのリンゴ、このリンゴ、具体的なリンゴです。
 「an apple」はどこのどれでもない一つのリンゴ。これは頭の中のリンゴ、意識の中のリンゴです。
 「an apple」と言えば、英語を解する人間は全員、頭の中にリンゴを思い浮かべることができます。
 こんな芸当は動物にはできません。
 「同じ」でないとできないこともあります。その一つがお金です。お金は等価交換です。等価も交換も「同じ」ってことです。同じ価値のものを交換すること。あれとこれを取り換える。それを便利に数的に表したものがお金です。a = b、b = a 。
 これを「交換の法則」と数学の基礎で言います。a とb は感覚では違うでしょ?
 それを「同じ」と考えるってことなんです。

 人間は意識中心になってきて、それがどんどん極端になってきて、ついにコンピューターになりました。意識の中を詰めていくとコンピューターになるんです。
 コンピューターはご存じのように 0と 1でできています。この仕組みを利用すると完全なコピーが作れます。皆さん、いろいろなデータをしょっちゅうコピーしていますよね? あれってどれがオリジナルですか? 時間が書いていないと、どれがオリジナルなのかわかりません。つまり、見ただけではオリジナルなのかコピーなのかわからない。究極的に同じものなんですよ。究極的に同じってどういうことかというと、人間に置き換えると「死なない」ってことです。
 皆さんは、私は私、どれだけ時間がたっても一貫して「同じ」私と思っていませんか? とんでもないですよ。現代医学では、7年たったら分子は全部入れ替わっています。同じ細胞をつくっている分子が全部入れ替わるんです。7年に1回、100%替わる。私なんか、もう11回全とっかえしているんです。7年に1回、部品を全部取り換えて11回たった車と同じなんです。
 「方丈記」の作者、鴨長明はこれを言っていましたね。「ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」。そこまではいい。そのあと何と言っているか。
 「世の中にある人とすみかと、またかくのごとし」。人も町も鴨川と同じ。あっという間に変わる鴨川の水と人間が同じだと言っています。物質とか知らないのに言っている。わかる人はわかっていたんだなと思います。
 意識の世界にいたら「同じ」自分なんですよ。意識って「同じ」を作る働きですから。だけどもとの自分ではない。ピンとこないと思いますけれど、暇な時にじっくり考えてみてください。
 人間と違い、感覚で生きている動物は、概念でくくって物事を「同じ」と見ることができません。例えば犬をここに連れてきたら、おじけづいて逃げ出します。全く違う生き物が何百もいたら怖い、当然です。
 人間だけが感覚で入ってきたものを無視して、言葉にして「同じ」を作り出せる。だからこそ人は相手の立場に立って物事を考え、共感できる一方で、「違い」を素直に認め合えず、排除したり苦悩したりする。私たちはもともと違うんです。そう思ったら人生、ラクになりませんか。(引用終わり)

 養老氏の発想を聞いたり読んだりすると、仏教の発想に近いことを思い、学ばせていただいています。
 お経は「如是我聞」(我、かくの如く聞けり)という文章で始まっています。まさに「私はこの様にお釈迦様の説法を聞きました」という意味です。お釈迦さまはお経を一人ひとりの心の目覚めを促すために説かれました。大事なことは、ほかならぬわたし自身のために説かれたお経なんだということです。説法を聞いて私の普段の考え方が翻(ひるがえ)されて、教えの如く生きていきたいという感動を引き起こすものであったようです。その内容が悟り、目覚め、気づきと表現されています。
 現在でも法話を聞いて、仏教の教えの深さ、目覚めさせられる内容に驚いたり、自分の迷いを言い当てられた、と感動を以て聞くことの大切さを感じています。
 ある僧侶が中国から来た留学生(仏教に詳しくない)と対話をしていた時、たまたま宗教の話になり、中国は漢字の国ですので、話すより書いた方が分かりやすいという事で、お経(阿弥陀経)の出だしの「如是我聞」を書いて示したら、それを見た彼は「よく分かる」と言われて、そしてこの「如是我聞」という言葉は「わたしの心の中に新しい世界が生まれて来ました、という意味ですね」とおっしゃたのだそうです。
 日本では慣用句のように、「このようにお釈迦様の説法を聞きました」と訳されるのに慣れていて、「心の中に新しい世界が生まれて来ました」という言葉を聞いてびっくりしたそうです。なぜそういう受け取りになるのかと問うと、「もう中国では漢字の意味の分かる方は少なくなりましたが、『聞』は心にきこえてきたことをあらわす字なので、聞いたことによって心が新しく新鮮に開かれてきたと訳す。」と言われたそうです。
 『聞』という字を使って表現したのは「仏様の光によって、私の心の闇が明るく解き放されること」なのです。「聴聞の聴は耳できく。聞は心できく。」という言葉があるそうです。仏教は世間とは異質な世界です。お経(経の解説が「論」、論の説明が「釈」です)を読むことによって心が開かれていくことなのでしょう。
 仏教の勉強をするとき、『私の心の闇が、仏様の光によって解き放されました』と言えるように心して学ばねば、と思いました。

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