9月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2566)

 大学生の頃、九大仏教青年会の教理部会の勉強会で浄土教の本を読んで念仏の心の曽我量深先生の文章を読んで全く歯が立たず、多くの参加者の戸惑いに「全く分からん」という感想で一致したことを印象深く思い出します。20歳過ぎの、そんなに頭が悪くないという自尊心を持つ若者で、念仏の心に触れたことのない者たちには無理もないことでしょう。南無阿弥陀仏というのは「何?」「呪文?」……、指導者が居なくて人間の理性知性の対象として、理知分別の理解の中に入れようとする愚かさに気づくはずがありません。
 浄土真宗での「行」とは何か? 「行」には三つの定義がるようです。一つには進趣の義、私を推し進め、前進して行く。迷いの世界から覚りの世界へ私を推し進めていく。二つには造作の義、行ということによって何かができる、完成して。三つは内心渉境、内なる思いが外に現れて来る、信火行煙、内の信の火があると必ず外に何らかの相が出て来る。
 大乗仏教(浄土の教え)に出遇う前の天親(世親)菩薩が念仏、南無阿弥陀仏を批判して「唯願無行」と言われました。念仏は「願い」はあるかも知れないが「行」(具体的なはたらき)がないとの批判です。自分の求道ではなく学問的な対象として仏教の学びをしていたのかも知れません。兄の無著菩薩は小乗仏教で出家したものの、大乗仏教を学んでみると、大乗仏教のすぐれていることを知り、大乗仏教に転向していました。弟が大乗仏教を学びもしないで批判ばかりしていることに心を痛め、無著は弟へ種々の働きかけをします。無著の願いを持った種々の対話を経て天親も大乗仏教に出遇い、出遇いの感動によって浄土論(願生偈)を書かれて浄土教の確立に大きなはたらきをされました、その事を親鸞聖人は、浄土論が説かれてなかったらならば、大経(仏説無量寿経)の心を受け取ることが出来なかっただろうと、天親・曇鸞を高僧として讃えられています。
 「唯願無行」の批判に対して善導大師が「観無量寿経(観経)」の中の十声の念仏(南無阿弥陀仏)は、一声一声の念仏の中に願行が具足している。前述の進趣の義、造作の義、内心渉境を具えた「仏の」行である示されました。私の行ではなく念仏には仏の願いも働きも備わっているということ、下記が善導の南無阿弥陀仏の六字釈です。
 「またいわく『南無』といふは、すなはち帰命なり、またこれ発願回向の義なり、『阿弥陀仏』というは、即ちこれ、その行なり。この義をもってのゆえに、必ず往生を得、と」(島地聖典12−21)

 これについて親鸞がお心を述べています。(下記下線の二つの古文の引用は、浄土教に慣れてない人はパスしてください)
 「教行信証」には、しかれば、「南無」の言は帰命なり。「帰」の言は、[至なり、]また帰説なり、(中略)、説の字は、(中略)、述なり、人の意を宣述するなり。「命」の言は、[業なり、招引なり、使なり、(中略)、召なり。]ここをもつて「帰命」は本願招喚の勅命なり。「発願回向」といふは、如来すでに発願して衆生の行を回施したまふの心なり。「即是其行」といふは、すなはち選択本願これなり。「必得往生」といふは、不退の位に至ることを獲ることを彰すなり。(島地聖典12-25)
 『尊号真像銘文』には、「言南無者」といふは、すなはち帰命と申すみことばなり、帰命はすなはち釈迦・弥陀の二尊の勅命にしたがひて召しにかなふと申すことばなり、このゆゑに「即是帰命」とのたまへり。「亦是発願回向之義」といふは、二尊の召しにしたがうて安楽浄土に生れんとねがふこころなりとのたまへるなり。
 「言阿弥陀仏者」と申すは、「即是其行」となり、即是其行はこれすなはち法蔵菩薩の選択本願なりとしるべしとなり、安養浄土の正定の業因なりとのたまへるこころなり。(島地聖典17-6)
 如来の側から、衆生の側から、親鸞は2か所で書かれていますが、教行信証では如来の側から、尊号真像銘文は衆生の側から言っておられます。まず『南無』について。
 『教行信証』では、「南無」というのは如来の喚びかけ。「帰れ、来たれ」「帰命せよ」という如来の呼びかけである。「我とともにあれ」である。それを「如来招喚の勅命」という表現で言っている。それが親心である。『尊号真像銘文』の方は、「南無」は一心帰命、「帰命したてまつる」である。「南無」という如来の喚びかけが届いて、一心帰命。それを衆生において「南無」というのである。そこに子心、如来の子として生れた姿がある。
 「南無」は如来の願いであり、それが届いて我らのうえに「南無したてまつる」という願心がおこる。それが如来においては親心であり、それにおいて子心が生まれて、「南無したてまつる」という一心帰命のまごころが生まれたことを「南無」というのである。それを信心というのである。
 「発願回向」とは何か。「発願回向」と言うは、如来すでに発願して衆生の行を回施したまうの心なり。(島地聖典12-25) 「発願」は「帰れ、来たれ」である。
 「回向」は「回施」ともあるように、阿弥陀仏(無量光、無量寿)の全体(法蔵菩薩の修行の功徳の全て)を届けようということである。願を起こし。「帰れ、来たれ」という願いと同時に、仏の全体を届けようという回向、それが「南無」の中に入っている。
 この事をうまく言った和讃がある。
 如来の作願をたづぬれば、苦悩の有情を捨てずして 回向を首としたまいて 大悲心をば成就せり(島地聖典11-35 『正像末和讃』)
 現代語訳:阿弥陀様が、48の本願を起こされた理由を尋ねると、苦悩する私を見捨てないためでした。長く修行した後、その功徳を私に回し向けることを第一に考えて「南無阿弥陀仏」という六字の名号で、私の苦悩を解き放つという大きな慈悲を完成されました。
 簡単な解説:人間は、生きる上で様々な苦悩に出会います。たとえば、病気で自らの限りある命に気づき、その空しさや不安に駆られたり、思いもよらず我が子に先立たれるという悲しみもあるでしょう。
 阿弥陀様は、このような苦しみに日々直面する私の姿を、すでに見抜いていました。そして、「あなたを救う」と誓い、長い修行によって極楽浄土を完成させ、その修行の功徳を集約し、「南無阿弥陀仏」の名号を完成させたのです。
 これによって、この私は、往生浄土の歩みを終生して命が終わるとき涅槃へ救われていきます。また命ある間は、阿弥陀さまは、いつでも・どこでも称えやすいようなお念仏・「南無阿弥陀仏」として、私に寄り添って下さっているのです。「あなたの喜びや苦しみは、私の喜びでもあり、苦しみでもある。あなたの悲しみを、私も共に悲しもう」と呼びかけているのです。
 私たちは、お念仏することで、法蔵菩薩のご苦労を感得して、私に寄り添っていて下さること知らされます。それは、生死(迷い)の苦しみから救われていくことに気づくことでもあります。高僧和讃には、生死の苦海ほとりなし ひさしくしづめるわれらをば 弥陀弘誓のふねのみぞ のせてかならずわたしける (西聖典注釈版579頁)(現代語訳:生死の世界は苦しみばかりの海のように果てがない。この海に遠い過去より沈んでいる私たちを、阿弥陀如来の本願の船は、乗せてかならず渡してくださる。
 法蔵菩薩のお心を推測するに、「もう衆生が自力で目覚めることは期待しません」。菩薩は人間の迷いの在り様を見抜かれて、そう思われているのです。
 もうあなたたちには期待しません。「あなたたちには無理、だから私が信心(方便法身の南無阿弥陀仏)になります。こう言って兆載永劫の間修行して、仏が他力の信心(仏の智慧)にまでなった」。他力の信心は仏の智慧を頂くことです、私の心ではなく仏様の心です。

(C)Copyright 1999-2022 Tannisho ni kiku kai. All right reserved.