10月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2566)

 仏教の勉強を続けると、断片的に知識として持っていたものがつながって「なるほど」と感動することがあります。円徳寺(宇佐市下高家)での「教行信証を学ぶ会」での延塚知道先生(大谷大学名誉教授)の講義のたびに「なるほど」という感動を頂いています。仏教の知識をつまみ食いみたいに増やしていたものが、有機的につながるのも仏教の世界の広さ、深さを垣間見る経験となります。仏教には日本に伝わっているものだけでもいろいろな宗派があります。インターネットで検索すると現在の日本で、大きな宗派として存在しているのは、法相宗、華厳宗、律宗、天台宗、真言宗、融通念仏宗、浄土宗、浄土真宗、時宗、臨済宗、曹洞宗、黄檗宗、日蓮宗の13宗派だそうです。
 仏教の教え方の基本は対機説法、相手の力量の器量に応じた教えを説くということです。ブッダ(釈尊、世尊)の目覚め、悟りの内容を聞き手の器量に応じて分かるように種々に説かれたということです。そのために宗派が分かれていったと思われます。
 仏教は自分が努力して心がけて、行為を正しく整えて瞑想(座禅)して仏に成る方向を聖道門仏教と呼びます。代表的に目にするのが禅仏教です。釈尊の成仏の物語を読んだり、聞いたことのある者にはこの方向性を教える仏教が仏教だと理解しています。一般の本屋で販売している仏書もこの道を説くものが多いです。この方向は出家して修行をする道ですから、宗教的に恵まれた人は可能でしょうが、家庭をもって世間で生活しているほとんどの人は途中で挫折します。
 現代という時代、時代性と人の器量を考慮して可能な道として浄土教(浄土仏教)が説かれたのです。浄土教に初めて触れる人はこんな仏教があるの(!、?)と思うでしょう。仏教の思想の中に末法という考え(釈尊が亡くなり、仏弟子もいなくなり、直接指導を仰ぐ師がいなくなった時代性)があります(禅系統の人は末法を認めていないようです)。
 末法の時代とは仏教の教えは残っているが、正しく仏教を指導してくれる人、出家して厳密に修行する人がいなくなっている時代を末法と言うのです。「聖道門仏教は素晴らしい僧侶や学者さんはいるが、檀家のレベル(庶民)で悟りに相当する人は誕生してない」と宗教関係のマスメディアの人から聞きました。
 浄土教は末法の時代、俗的な欲(煩悩)まみれの生活をする人にも救われる道を教え、救いへ導く道としての仏教ですから、かろうじて少ないながらも現在でも救われている人を誕生させていると聞きました。事実、そういう人にお会いする機会を持つことができます。
 禅仏教で代表的な人で禅仏教を西洋に紹介して人に鈴木大拙(1870-1966)がいます。大拙は学習院で教鞭をとっていたが大谷大学に招聘されて英語、仏教学を担当されていました。近代日本最大の仏教学者と評価され、1949年に文化勲章を受けています。大拙は禅宗と浄土真宗に深い造詣があり、親鸞の主著、「教行信証」の英訳に90歳頃から取り組まれています(証の巻まで)。最後は95歳で聖路加病院で亡くなれています。主治医はあの有名な日野原重明先生でした。
 浄土真宗を学んでみて、禅宗の言葉に教えられることが多く、禅宗と浄土真宗の救いの世界は共通性のあることを感じていました。
 禅の悟り(覚り)と浄土真宗の信心を頂くことは同じだと聞いていましたが、自分の中でもそうだろうという思いでいたのですが、禅の悟りは聖人君主のような理知的な凛とした俗を離れた世界を想定していて、浄土真宗の信心、俗世で世間生活をしながら仏智を頂く世界(誓願一仏乗、本願の大船に乗せられて楽に、易行としての救い)の雰囲気とは違うようにイメージしていました。
 延塚先生の講義の中で教行信証、信の巻の序文に、「己身(こしん)の弥陀、唯心の浄土」という言葉があり、その講義をお聞きして今まで理解のできていなかった部分に光をあてられた思いがしました。聖道門仏教では「己身(こしん)の弥陀、唯心の浄土」の意味を、自分の心の内面に仏(阿弥陀仏)の心、仏性(仏になる種子)があり、その心を磨きだし、仏の心と一体になることを目指している」と聞いて、かって禅宗の知人から、「私たちは釈尊が覚られた道をたどって修行してゆく」、と聞いてことが思いだされました。
 「己身(こしん)の弥陀、唯心の浄土」を検索して調べて見ると禅宗の一派の黄檗宗の宗制第一章第五条・教義の段に出てくる言葉で、「本宗は参禅を以って仏心を究明し、唯心の浄土、己身の阿弥陀仏を体得し禅教一如により転迷開悟 安心立命を期するを教義とする。」とあるのを知りました。
 浄土真宗の唯円の著作と言われる歎異抄の第一章には「弥陀の誓願不思議にたすけられ……」はまさに阿弥陀仏の心(仏の智慧)を頂く世界が浄土教の信心の世界であるということです。すると禅宗の悟りの世界も阿弥陀仏の心を体得することが転迷開悟であると示されています。目指すところは同じなんです。
 浄土の教えを頂く私にとって、仏の智慧(無量光)に照らされて、自我の殻(煩悩性)を照らし出し、照らし破られることを実感する者は、自分の中に仏性があるとは到底認めるわけにはゆきません。貪・瞋・痴の煩悩、唯識では第七識、末那識の内容は我痴、我見、我慢、我愛の煩悩に汚染されている心(意識)を明らかに知らされている身には、観無量寿経の中の世尊の韋提希への言葉「汝は凡夫なり」を仏語としてその通りでございますと受け取らざるを得ない私なのです。
 たどり着くところは同じ「仏の心」というと、浄土門と聖道門はどこが違うのか。聖道門は自力の発想で観念的な理想論です。浄土門は仏の智慧に照らされ、照らし破られて「煩悩具足の凡夫」、生死(迷い、死に向かって生きる私)の体験的な自覚です。愚禿釈親鸞と自称するように、僧でもなく、俗でもない存在であり自分の救われようのない目覚めに、仏の前に懺悔合掌念仏する所に、仏の如なる世界から「南無阿弥陀仏」(汝、小さな殻を出て、大きな仏の世界を生きよ)が方便法身(仏の智慧と寿を届ける、南無阿弥陀仏となって)として不思議にも届けられている。仏のはたらきに直接して、私に呼びかけ、呼び覚まし、仏の世界に呼び戻す仏の根本的・本来的な「本願」の心に触れて、私も本願、念仏の心に触れながら法蔵菩薩のご苦労を感得して信心歓喜、この世を念仏してイキイキと生きさせていただくのです。
 自我意識の観念的な「己身(こしん)の弥陀、唯心の浄土」とは、『涅槃経』にお釈迦様の教えとして一切衆生悉有仏性(一切衆生悉(ことごと)く仏性有り)と説かれているようですが、仏の目に見える仏の異質な世界は凡夫には到底見えません。
 覚如上人は改邪鈔に「聖者のためにして凡夫のためにあらず。かるがゆゑに浄土の教門はもつぱら凡夫引入のためなるがゆゑに、己身の観法もおよばず唯心の自説もかなはず、ただ隣の宝をかぞふるに似たり。これによりて、すでに別して浄土の一門を立てて、凡夫引入のみちを立せり」と説いています。

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