11月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2566)

 民族宗教から世界宗教へ(大峯顕師の「宗教の授業」(法蔵館、2005)を参考)全ての民族は民族宗教を持っていた。それは「豊かな生活」を目指して何か大いなるものに祈っていた。狩猟民族であれば、狩猟において多くの獲物が取れることが「豊かな生活」につながるので、世界史の教科書にヨーロッパの洞窟に動物の絵が描かれていることを学んだことを思い出す(獲物が多く取れますようにと祈ったと思われる)。農耕民族であれば、自然現象が順調であれば農作物が豊作となり、「豊かな生活」に結び付くのである。
 氏神や神社に参る人のお願い事は「無病息災、家内安全、商売繁盛、願い事成就」だと推測されます。(私が友人・知人を連れて宇佐神宮に行く時は、南無阿弥陀仏と念仏するようにしています。)
 「豊かな生活」に密接に結びつくのが、私を取り巻く周囲の状況です。農産物が豊作である、海だと大魚である、野山では獲物が多く取れる、などです。科学の進歩で自然現象の解明がなされ、豊作、大魚などは農業・漁業・気象学の発達で、必ずしも民族宗教的な祈願などは意味はなくなり形式的な儀式として残るも、多くは廃れていきました。残っている代表的な民族宗教はユダヤ教と日本の神道だという。
 ここで注目すべきことは人間の幸・不幸を決める要素は私の周囲の状況・条件であるという思考です。
 民族宗教の中から世界宗教(宗教哲学的にはキリスト教・仏教・イスラム教と言われています)が展開します。普遍的な世界宗教は「悟り、目覚め、気づき」へ進展・展開をして、民族・時代・地域・社会を超えて広がったものです。悟り、目覚めは人間の「豊かな生活」は外の要件ではなく、外の状況をどう受け取るかのいわゆる意識・心の問題であると考えるように展開したと思われます。
 昭和40年前後に庶民の憧れの三種の神器はテレビ、洗濯機・冷蔵庫でした。現在では一人ひとりが携帯電話、車、エアコン付き住宅、豊富な食糧などなど…、「物の豊かさ」は実現できているでしょう。
 雑誌「らんどあるつと」(昭和63年(1988年)10月)岩手県地域医療研究会。30周年(1958−1988)記念特集の巻頭言(中島達雄、総合水沢病院院長)の文章には、 (前略)現代の日本における住民の生活は衣食住に関する限り恵まれ過ぎている位だし、昔のように金が無くて医者にかかれないという現実もない。世界一の長寿、伝染病の克服、乳幼児死亡世界最低を誇り、金持ちの国ニッポンと謳われている。それなのに何となく虚しく充実感がない。物質的な欲望は満たされているのに我々は生きているという実感と歓びが無いのである。これはどうしたことであろうか。(後略) と書かれていた。
 後日、研究会で直接お会いする機会があり、中島先生へ「何となく虚しく充実感がない。物質的な欲望は満たされているのに我々は生きているという実感と歓びが無いのである」に関して、「宗教的な課題だと思います」と告げたが、全く関心を示されなかった。これが医学・医療界の大勢でしょう。
 世界宗教の悟り、目覚め、気づきは人間の幸・不幸を決めるのは外の要因ではなく、外の事象をどう受け止めるかの意識・心の問題だと深化・展開したために普遍性を持つ宗教になったのです。
 我々は外の課題に取り組むのに精一杯で、それが満たされたり、解決されると一安心です。そのことの繰り返しを70年近く続けてきました。問題はなくなったか、いやいや次から次に取り組まなければならない問題がおこってきます。どこまで??、多分意識がある間はなくならないのでしょう。仏教ではそういう人生を「生死(しょうじ)」と言い、迷いという意味です。死へ向かっての生という意味でもあります。最終的には老病死の四苦の解決(生死を超える仏の智慧)がつかない限り「人生苦なり」ということになるでしょう。
 我々の人生を「生死」と言い、「迷いの人生」ということで思い出した文章があります。広大仏青の機関紙「無辺」1987年No4、の「現代人の愛」の特集です。「人間の愛と神の愛」、植竹利侑、広島キリスト教会牧師
 エロオスの誕生
 愛について語る時、ギリシャの哲人プラトンを除いて愛を語ることはできない。(中略)「饗宴」の著の中で、人間の愛、すなわちエロオスの誕生を次のように述べている。
 美の女神、ヴィナスの誕生を喜んだゼウスの神(ギリシャ神話中の主神)は神々を集めて饗宴を催した。招かれた神々のうちの一人ポロス(富裕)は美酒に酔い台所へ水を飲みにいって酔い伏した。そこへたまたま物乞いにきていた貧乏の女神ペニアが彼を見そめ、介抱すると見せかけて誘惑し、夢のような一夜をあかして離別した。
 やがて玉の様な男子を出産し、これをエロオスと名付けて寵愛した。このエロオスこそ「人間の愛」の表象神であると定義した。
 人間の愛、エロオスの性質
 エロオスはペニア、すなわち欠乏の子として育った。ペニアはその本質がペニアなるが故にペニアであることに少しも痛痒を感じないが、エロオスはペニアの子であると同時にポロスの子であるが故に、ペニアの現実に満足することがでず、激しくポロスを恋い慕う。すなわちペニアより出発したポロスへの愛、欠乏より発した富裕への愛、充足へのあこがれ、それがエロオスである。すなわち人間の愛の本質である、とプラトンはいった。
 これほど人間の愛の本質を言い当てた言葉があるだろうか。人間の愛は、いつも自分にないものを恋い慕う。貧乏が富裕を、欠乏が充足を、無名が有名を、男が女を、女性が男性を恋い慕う。それが人間の愛の本質なのだ。しかし、それがある故に人は美よりもより美しいものへ、価値よりもさらなる価値へ、真理よりもさらなる真理へと追求する。そこに向上があり、発達があり、芸術、哲学、宗教があり、文明文化が生まれる必然性があった。
 人間愛の矛盾と問題性
 この問題の原因も、エロオスの本質が欠乏から出発する充足への憧れであるというとき、明らかになるように思われる。その問題点の第一は、充足すれば止む、というところにある。人間の愛エロオスは欠乏している時にもっとも激しく燃えさかる。しかしその欲望を遂げ、満ち足りたときには倦怠を生む。しかも飽食のはては、興味と関心が新たな対象へと移ってゆく。これがエロスの悲しい性質である。
 問題点の第二は、それが「価値への愛」であるというとことにある。充足への憧れは、価値の追求に他ならない。自己の欠乏を満たすものは、自己にとって価値である。価値への愛、価値あるものへの憧れは、価値ありと思われるものには働くが、価値なきものには働かない。(中略)人間社会の全ての営みが、この価値への愛で動いているという事実は、人間愛の本質に基づいている。
 人間社会の全てといったが、経済活動ばかりか、人間関係の核心ともいえる、恋愛、結婚の関係にまで、価値愛が入り込んでいるとうことは、驚くべき事柄であるといわなければならない。
 例えば、見合い結婚の場合よりにより、すぐりにすぐって価値ありと思える人を選ぶのではなかろうか。では恋愛はどうか? 恋は盲目というではないか? それは社会常識に対して目が見えなくなるだけで、相手の持つ価値が自己の好みに合ったときに起こる価値感覚であって、これもまた極めて自己中心的な感情であることがわかる。相手の価値が変わり、自己の価値観価値感覚が変わると、好きが嫌いになり、愛が憎しみに変わり、愛の破綻が訪れる。
 問題点の第三は人間の愛エロオスが、自己の充足、自己の価値観にもとづくこと、すなわち、絶えず自己的であるという点にある。人間愛は自己愛である。自己の満足、自己の幸せ、喜び、楽しみが究極の目的であって、他者を愛するのも、結局は自己が愛されたいからである。自己が目的であるとき、いかに他者を愛したとしても、それは手段でしかありえない。他者を愛することによって自己を愛すのだ。(資料引用は以上)
 外の要因を解決して満たされても、それがすぐに「当たり前、当然」になる、この思考に潜む迷妄性を仏教では煩悩という、人間の深層意識を仏の智慧に照らされて見ることを内観という。プラトンの人間の愛の哲学的思索と共通性を感じます。仏智で我々の煩悩を照らし破る(目覚め)ことが仏教の救い(迷いのままに生死を超える)に通じるのです。あるがままをあるがままに見る、そしてこの現実は私に何を教えようとしているか、気づかせようとしているか、演じさせようとしているかと念仏して思考するのです。

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