12月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2566)

 小学高学年、中学時代、読書が大事だとよく聞いていたので図書館でいわゆる有名な著者の本を借りて読もうと何回か試みましたけれど、興味がわかず途中で止めたという経験があります。そういうことも影響したのか哲学・宗教に全く関心を持つことがないまま高校生になりました。受験勉強の中で理系の科目はいわゆる計算的な思考で理論で組み立てて行く思考であるために問題を解くことに面白みを感じて点数が取れるので、それに似た言語の組み立てによる英語も不思議に点数が取れて勉強に励みました。
 運よく大学にも滑りこみました。しかし、私はいわゆる文系の素養がないままで大学生になったのです。大学では読書に努力して興味の持てそうないろいろな本を読む努力はしました。必修科目の多い医学部では否応なく進級に必要な試験勉強を定期考査で準備をするなかに医学体系の基礎を学んでいました。西洋医学文化の蓄積、そして先人による教育システムのお陰で知識を学びました、そして先輩方の経験に学び、臨牀の経験で育てられました。
 一方、普遍的宗教(世界宗教、時代、民族、地域を超えて広がった悟り、目覚め、気づきの宗教)の一つの仏教の学びの縁を幸いに大学の仏教青年会活動のご縁で、周り回って仏教の師との出遇いをいただくことが出来ました。仏教の悟り、目覚め、気づきに導かれる歩みは、行きつくところは仏の智慧を頂く(覚り)ことでした。日頃の思考から言えば仏教は次元を超えて異質な世界でした。
 大学生になり、仏教の学びを始める頃までの思考はいわゆる「計算的思考」が誰もが準拠する科学的思考で、それしかないと無意識のうちに思い込んでいました。
 日常生活でも問題や課題に出会うとその問題や関連する情報を集め、解決へ向かって努力をしていました。次から次へと課題は迫ってきます。そして解決へ向かって取り組みをしてきました。すぐに解決がついたり、長年の課題として宿題のように抱え込むものもありました。それが人生だと思いながら、その繰り返しはどこまで行っても切りがつきそうにないということも漠然と思っていました。
 医療の世界で患者さんと接していると多くの人は健康で長生きを目指しています。
 漠然と差し迫って死にたくはないので「長生き」を目指しているように発言されることが多いです。そこで長年の付き合いのある気心の知れた患者に「長生きして、いろんな経験をするけど、世界を見ても、日本の世情を見ても、身近な現実を見ると、長生きしても善いことばかりではないのではないですか。地震や水害、コロナ騒動、戦争の理不尽さ、思い通りにならない苦しみ、等々、長生きしなかったら見たり、経験したりしなくてよかったと思われることが一杯あるでしょう」というと「本当、そうですね」とうなずかれる人が多い。
 多くの人は自分の周囲の状況をできるだけ自分の思いに沿って改変していこうとします。歴史上では「この世をば 我が世と思う 望月の 欠けたることの なしと思えば」と詠った(966-1028)はかなり自分の野望を実現していき、前記の歌を詠んだのです。しかし、晩年は健康を害しており(糖尿病と思われる)、50歳を過ぎから急激に痩せ細り、水をよく飲むようになり、視力も年々衰えて感染症で64歳で亡くなっています。
 法然上人(1133-1212)誕生の前ですが浄土教に対していわゆる信仰心が厚く、最期は自らが建てた法成寺阿弥陀堂本尊前で大勢の僧侶に囲まれ極楽浄土を祈願する儀式の中で本人も口に念仏を唱えながら臨終を迎えたと伝えられています。(念仏をも自分の思いを実現する為に手段として利用する心の様です)
 仏教の「人生苦なり」の真意は「人生そのものが苦」だと言っているのです。しかし、私たちは「人生には苦もあり、楽もある」、そして楽になることを増やして生きることが人生だと思っています。
 人間の分別思考は、自分の幸・不幸、苦・楽は私を取り巻く外の要因が決めると思っているのです。そして私の周囲に幸せのプラス要因を増やし、マイナス要因を減らして幸になろうと生きているのです。しかし、プラス要因を集めて、増やそうとして、実現したとしても、その状況をいつの間にか当たり前、当然として、もっと増やした方が安心と考えるのでキリがありません。その思考を仏教は煩悩(無明、闇、迷い)と言います。貪欲・瞋恚・愚痴、我痴・我見・我慢・我愛と表現しています。幸せを決めるのは外の要因だと考える限り、どこまで行っても「知足」になりませんと我々の心の在り様を見抜かれているのです。人生の中での苦・楽を言うのではなく、分別思考で生きると必ず苦楽を含めた「苦の人生(どこまで行っても知足がない)」に成ると言い当てていたことに気が付きました。
 私たちの欲の在り様を、宝石アドバイザーが、「最初はみんな小粒のダイヤの指輪を買うけれど、そのうち絶対もっと大きい石がほしくなるし、ダイヤの次はルビーやサファイアといった、色のあるものが欲しくなるんです」、と書かれていました。
 仏教は苦の原因は外の要因ではなく、外のいろいろな要因を受け止める私の心、意識の要因が大きいのだと言い当てているのです(迷いや悟りは、心から現れる)。
 決して外の要因と無関係というのではないのですが。仏の智慧、無分別知は外の要因を分別せずに無記(註1.無記:釈迦がある問いに対して、回答・言及を避けたことを言う。仏説経典に回答内容を記せないので、漢語で「無記」と表現される。善・悪等、いずれの性質をも帯びないものを無記とする)とします。そしてその背後に宿されている意味・物語を感得するのです。
 仏の智慧はこの世のものはすべて関係性を持つ、無関係なものはない、縁起の法を教えます。私はガンジス川の砂の数の因や縁によって存在あらしめられている。
 私の存在の背後に宿されている無量の因や縁を知らされる時、多くの関係してくれた方々のご苦労やお陰にも気づかされます。親になってみて、親の子を思う心を実感して、忘恩の親不孝の事実を南無阿弥陀仏と懺悔せずにはおれません。恩とは私になされたご苦労を知る心と知らされます。
 仏の智慧によって私の存在の背後に宿されている意味や有縁の方々のご苦労を感得する時、私の生きる方向性は自然と与えられた現実の場で、役割や使命を感受して、仏よりいただいた仕事として粛々と取り組むでしょう。「しあわせ」の本来の漢字は「幸せ」ではなく「仕合わせ」(広辞苑による)と知らされる時、「仕合わせ」とは「仕事」そして「仕えるべきもの」に「出合う」ことが「仕合わせ」という意味と頷けます。世間の目を気にして心が不安に揺れ動く人生から仏の目を相手の分別思考の執われから解放された人生へと導かれるでしょう。
 浄土の徳を讃嘆する願生偈(浄土論)の一節「衆生所願楽、一切能満足」(衆生の願楽する所、一切能く満足す)の心を児玉暁洋師は、「衆生が本物(浄土)を欲する意欲に生きる時、本当の満足が与えられる」、と読み取られていました。仏の智慧のはたらきの場、浄土を感得する歩み(往生浄土の歩み)の中に本当の「知足」の世界が展開する。到達点に囚われず、浄土への歩みの中に「存在の満足」に気づきつつ、与えられた役割に目覚め、私の使命・仕事と受け止め、南無阿弥陀仏と念仏して使命を生ききるのです。
 私を取り巻く外の要因を小賢しく分別して見て、問題の解決や都合の善いものを集めようとする私の生きてきた世界は「穢土」だったのです。煩悩に汚染された私の存在、意識が穢土を作っていたのでした。
 仏教は、私の幸・不幸を決めるのでは外の要因ではなく、外の要因をどう受け止めるかの私の意識を問題にしたのです。私の心に潜む煩悩性に目覚めさせる仏教の智慧、世尊の悟りは生死(しょうじ:迷い)を超える道への目覚めです。世尊の目覚めの第一声は「我は不死の法を得たり」だったと伝えられています。
 12月8日成道会(じょうどえ)は、世尊の悟りを開かれた日の法要です。死へ向かっての「生」から、成仏への「生」へのコペルニクス的転回、生死を超える道、仏道を人類に示されたのです。

(C)Copyright 1999-2022 Tannisho ni kiku kai. All right reserved.