2月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2566)

 前回、10年前の報恩講で池田勇諦師の法話の一部を紹介しました。その内容は、諸仏称名(諸仏が仏の徳を讃える)と衆生称名(凡夫が仏を褒め称える)の違いについてのお話があり、それに続いて、ある講師がお寺でご法話をされたときのことですが、聴聞していたご門徒の人たちが「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」とお念仏をしていると、「やかましい」といって怒鳴られたというのです。「念仏をやめんか」といわれたのです。そんな、「念仏をやめろ」というような坊さんなんか見たことがないと、みんながぼやくと、「凡夫が念仏なんかできると思っているのか」と重ねておっしゃったというのです。本当にそこなんですね。そこが衆生称名の「手の離れる」ところ、救いが成り立つキー・ポイントなのですね。私たちは称名の私有化、ぎゅっと握り込んで離しません。
 衆生称名ですから、いくら称えたって、不安や問題が解決したり、気持ちが落ち着いたりしないでしょう。「私は腹が立つと、『南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏』と念仏しながら家の中を回るんです」とおっしゃった方がありましたが、そんなことしてみてもどうにもならないですよね。「私の称名だ」と、私が主語になっている限りは、称名はどれほど称えてみたところで救いにはならない。それを、先覚はそういう厳しいお言葉で教えてくださっているのです。
 本当に凡夫からは称名ということは成り立たない、呼びかけ・呼び覚ましにならない、この自覚です。機の深信です。そこが明らかにならないと、「選択易行の至極を顕開す」といわれたお心が明らかにならないではありませんか。「称する」ということは、称揚するということ、称讃するということです。名号をほめたたえるということが称名の原義です。ならば、仏を凡夫が讃嘆できますか。仏を讃嘆できるのは、仏のみです。それなのに、凡夫が仏を讃嘆することができると思い込んでいるのです。自分という存在を、いつの間にか称名できる存在だと思い込んでかかっている私たちということが問われているのでありませんか。
 念仏一つで救われるというけれども、痛くもかゆくもどうにもならないでしょう。ですから、ここに真宗仏道の極まりとして、凡夫の称名から、諸仏の称名への転換が起こるのです。それは衆生称名の罪(第二十願の機の問題)の懺悔として成り立つことでした。私が仏を呼ぶに先立って、実は仏から呼びかけられていた私であったことの気づきです。だからこそ、一声の称名で救われる「諸仏称名の世界」が知らされると驚きなのです。こちらの称え心が関係なくなるのです。称え心の問題に閉じ込められていたありかたからの解放です。称名はいつでも・どこでも・誰のうえにあっても「所聞の法」です。どんな動機でこの口に現れようとも仏の呼びかけ、本願にたちかえらせるお声だったのです。「一声の称名で救われる」大道です。

 以上がその内容です。お話が全体の流れの中でその部分ですから、局所に執われると講師の意図を受け取れないことになります。お経は基本が対機説法(相手に応じた法を説く)です。8万4千の法門と言われるのは、仏教は対機説法、聞く人の状況、能力、理解力、などに応じて説かれるが基本だからです。覚めの原則、基本はあるのですが、その原則を基本としていろんな場合には応用として説かられて来たのです。
 「歎異抄に聞く会」の講義の後に必ず質疑応答を30分していますが、前回(1月)のその時間帯で、念仏している人たちに「やかましい、念仏をやめんか」と言ったお坊さんへの批判がありました。それはこれまで聞法して来て、多くの尊敬する講師の人たちは、「念仏の意味が分かっても、分からんでも、念仏することが大事です」、と言われ、教えられてきたのに、「念仏をやめろ」なんて理解できない、という趣旨の批判であったかと思われます。
 私(田畑)自身が、長年の聞法で「念仏することの大事さ」をお聞きしてきました。
 僧伽の中でも、大森忍先生の「仏教の分かる早道を教えようか、それは心の中に起こる程のことを見つめて念仏申す、しかし、世間の人は本気にしてくれない」という言葉を聞いたことのある人も多いでしょう。細川巌先生も「念仏の練習」、井戸のポンプで水をくむ時、呼び水として水が必要な時がある、それと同じで呼び水のように念仏の練習が要るのです、とお聞きしたことがあります。
 私自身も念仏の練習と思い、乗り物の待ち時間や思い出したとき念仏した経験があります。時に世間ごとで困ったり、問題に直面した時、夜眠れない時などに念仏した経験は多くあります。念仏したから、うまく行った、願い事が叶ったという経験はありません。念仏を道具みたいに使っているからでしょう。
 そういう意味では池田先生のお話は私に成る程と気付きに結びつく内容でした。しかし、多くの師が念仏することの大事さを言われています。それとどう整合性をつけるかという問題です。
 ある仏法の師より頂いたコメントは念仏するという事の二つの面(仏の方からの心と、衆生の方からの受けとめ)を言われていて、どちらも間違いではありません、ということでした。
 「念仏申す」に関してですが、私が現在いただいている浄土真宗の核心は信心決定して「念仏申す」ことであります。道綽までは観念、仏を頭の中で念相する、観念の念仏の要素が主であたったように理解しています。善導に至って称名念仏、口で称える念仏の受けとめに展開しています。
 中国浄土教では観念の念仏から称名念仏に展開するも、摂論派の別時意趣方便説によって念仏の声が聞こえなくなった時代があたったと聞いています。
 別時意趣とは、無着菩薩の『摂大乗論』にもとづく摂論学派の偏執者によって、『観経』下下品の十念念仏往生は、唯願無行であって、往生別時意説であるとして批判されたことによるのです。
 平たくいうと、釈尊の説法について、怠惰で精勤ではない劣機を激励するための方便として、遠く未来でしか獲得できない証果を、即時、または近時に獲得できるかのように示されたという意味の主張を「往生別時意説」というのです。つまり、摂論学派が下下品の臨終の十念では、遠生の因にはなるが、未だ往生を得ることはできないと主張したのです。
 それに対して、まず、道綽禅師は、十念成就は過去の宿因によったものであるから、臨終の十念成就は即生の因となるのであるとされた。(田畑の説明を加えると、訳の分からない念仏は言わんと執われていた所を、種々の因縁で念仏の訳がらを教えていただくお育てで、ついに「念仏申さんという心が起こった」のです)、過去の宿縁が成就して念仏が口から出たのです、縁が熟した円満した時の念仏との受け止めです。さらに、道綽禅師に導かれた善導大師は、十声の称名、即ち名号南無阿弥陀仏の中に願と行とが具足していると示し、願行を具足の故に、即時に往生ができるのだと明かして、浄土教批判を論破されたのです。
 法蔵菩薩は、我々衆生に寄り添ってみて衆生が自分を律して仏に成ることは無理だとはっきりした、もう衆生に期待しません。法蔵菩薩が方便法身の南無阿弥陀仏になって、衆生の信心となりましょう。誓願一仏乗となって、念仏の船に乗せて仏の世界、功徳の大宝海に導いていきます、と誓われたのです。
 仏の心を受け止めた法然上人は、人間の心の底の自然な本来性を尊重して、念仏をする人の心は問いませんでした。仏が呼びかけ・呼び覚まし・呼び戻す念仏の心に素直に受け止め、念仏することが大事です。仏の方から言うと信心決定して「念仏しなさい」、「我に任せよ、必ず救う」です。
 衆生の方から言うと仏の心を十分に受け取れずに表面的に受け止めになっても、念仏することが大事だと教えられてきたから教えのように念仏しますとなっているので、私が念仏をすることが大事だと思ってきたのです。そこで「念仏やめろ」と言われるとビックリです。仏々相念と言うように仏を念ずるのは仏と同じレベルになって可能なことです。私が念仏することができるでしょうか。迷いの衆生が仏の徳を褒め称えることは出来ません。仏の心に共鳴する心底の自然な(法蔵菩薩が来たり寄り添うが如し)神識(心の作用)が念仏せしめられる篤信者の念仏はビックリして念仏を一時的に止めても、すぐ南無阿弥陀仏と再び念仏が出てしまうでしょう。
 曽我量深師は「私は昨年上旬、高田の金子君の所に於いて、『如来は我なり』の一句を感得し、次の8月下旬、加賀の暁烏君の所に於いて『如来我となりて我を救い給ふ』の一句を回向していただいた。遂に10月頃、『如来我となるとは 法蔵菩薩降誕のことなり』と云うことに気付かせてもらいました」(曽我量深選集第2巻 p408.)と述べられています。

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