3月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2566)

 ストア学派(エピクトテスとアウレリウス)の哲学と仏教エピクテトス(50年ごろ -135年ごろ)はローマ帝国時代のストア派哲学者。解放奴隷出身でネロ帝に文章家として仕えた。小アジアのフリギア出身の奴隷であった。主人からストア哲学者ムソニウス・ルーフスの下で哲学を学ぶことを許され、ストア哲学を学んだ後、奴隷から解放された。
 外的なものに左右されず、自己を確立することによって「自由」を得ることを説いた。その思想は、哲人皇帝といわれるマルクス・アウレリウス・アントニヌス帝(121-180)にも影響を与えた。若い頃エピクテトスの下で学んだアッリアノスが、エピクテトスが話すのをできるだけそのままの言葉で書き留めたものが『語録』として広まった。そして今日に伝えられています。
 明治の東本願寺の学僧清沢満之は、私の三部経の一つとしてこの『語録』を大切にされました。
 エピクトテスの後、数十年後活躍された貴族出身の皇帝マルクス・アウレリウスはストア哲学を学んだあと皇帝になっています。彼の死後、哲学の実践を書き記した書「自省録」が発見されています。彼の内省を綴った「自省録」の内容は非常に人間的であり、政治性はほとんどありません。しかし、ストア哲学の影響を受けた彼の「自由」についても思索は読む人に生きる希望と力を与えてくれます。今でも高い評価を得ており、多くの人の心の支えとなっています。
 ストア哲学の思考は、「日常生活で出会う現実や運命と思われるような事象をどう受け止めて自由に生きるか」が大きなテーマになっています。その中で仏教(紀元前450年頃始まる)に似た「善悪無記」という表現があります。
 全ての事物は、それそのものに善悪がない(自我意識による分別をしない)ことを善悪無記と言います。全ての事物は、そのものに善悪がないことを示し、多くの人はこのような善悪無記を忘れてしまい、物事に対して分別して価値を感じてしまいがちです。「財産、地位、名誉、成功、容姿、健康」、これらのものは善悪無記です。これらを持っているから善いとか悪いとかはありません。ただ表象があるだけです。それに対して価値判断をしているのは、私たち自身の自我意識なのです。分別して思い通りに管理・支配しようとする意識があなたの苦悩の連鎖を作っているのです。
 表象とは、心の中に刻印される映像を示し、事象を理性で観察し認識しただけで、分別で善悪、損得、勝ち負けの判断を加えません。ただ映像が頭に思い浮かんでいるだけです。
 ストア派の哲学の軸の1つに、宇宙の秩序(ロゴス)という概念があります。宇宙の秩序は理性や自然とも呼ばれます。これらは全て物事を正しく判断する能力を指しています。ロゴス=宇宙の秩序=自然=理性=物事を正しく判断する能力とします。
 ストア哲学では、人間はロゴスの一部であると考え、ロゴスに従って生きることが、自然と一致して生きること、つまり幸福に生きることである、と考えました。
 人間が幸福になるには、ロゴスに従う必要があります。そして、人間はロゴスの一部であると考えます。それは人間は自分の内面に正しい秩序が存在している、ということです。自分に本来備わっている理性を掘り起こすことで、我々は表象に対する正しい(価値)判断ができるようになり、それは幸福の獲得に繋がると考えたのです。
 皇帝マルクス・アウレリウスは内省を通して、己のロゴスを探求し続けました。
 判断を誤るたびにそれを訂正し、言葉として書き記していったのです。理性に従うことで正しい判断ができ、それが自分の幸福、さらには国民の幸福に繋がると信じていたのです。
 幸福になれるように正しい判断をする理性をロゴスと呼び、そのロゴスを上手に働かせることができることを「徳がある」と称されたのです。徳がある人は、正しい判断をできるので、幸福になれるのです。
 では、どうすれば徳は得られるのでしょうか?
 ストア哲学における運命的な事象や現実は、起こるべくして起こり、自然に反することはない、というものです。そして”今この瞬間を生きる”ことに注目します。過去は既に生き終えました、未来は悩んでも何が起こるか分かりません。だから、我々人類には「今この瞬間を全力で生きる」ことしかできないのです。これがストア哲学の極意なのです。
 皇帝アウレリウスは自分が生まれてから死ぬまでを一本の線として考え、線は”点の連続”として捉えました。今この瞬間の連続が人生であり、人間には「今この瞬間を本番として生きる」ことしかできない、ということを理解して、待ち望んだ将来は今この瞬間であり、その「今は人生最後」のように理解しました。
 そして理想を掲げ、理想とは自分がそうありたいと思う姿のことです。理想を立てたのなら、それは今この瞬間に達成したと思い込みましょう。理想は「今を生きる」ための指針です。理想を今この瞬間に叶ったと思い込むことであなたの価値判断は変わります。正しい価値判断をすることを毎瞬繰り返していくことで軌道修正はでき、人間は幸福になれる。「理想を掲げた上で今を生きること」が重要だと思考しました。
 哲学者フィヒテが言うように「人間は死ぬと言っている人は本当に今を生きていない人で、初めから死んでいる人だ」とフィヒテは言っています。仏教的に言うと「死が怖い」と言っている人は、ほんとうの「生」を知らないからです。だから、「死んだら困る、という人にだけ死がある」のです。「死ぬことは阿弥陀さんにまかしてあります」という人には死はありません。阿弥陀仏は「お前は死ぬぞ」とは仰らない。阿弥陀さんは「お前は仏になる」と仰っているのだから、その通りに受け入れて、あとは余計なはからいを一切しない。こういう人は死なないで往生するのです。浄土真宗の信をほんとうにいただいた人はみなそうです。妙好人は死にません。浅原才市は、私は臨終も葬式もすんだと言う。それでは何をしているのか。
 「ナンマンダブと一緒に生きている」と言っています。
 仏教の縁起の法 [ 因や縁が和合して業(はたらき、行動)が起こり、その結「果」が次なるものに影響(報)を及ぼす ]は一刹那ごとに生滅を繰り返し(無常)、その一瞬が「今」であるとします。そして「今、ここ」しかないと言って「今を精一杯生きる」ことを大事にします。それでは「今」をどうしたら大事にできるのか。南無阿弥陀仏の心、「汝、小さな殻を出て、大きな世界を生きよ」の呼びかけをよき師、善き友を通して聞くような気持で受け止めて、具体的に念仏するのです。呼びかけ呼び覚まし(分別思考の愚かさに気づかせる)、仏のはたらきの世界へ呼び戻す、仏からの呼びかけへ反応して、分別思考のクロヌス時間(直線的な時計で量るような時間。過去・現在・未来と思考する)を念仏が切断してカイロス時間(切断された一瞬、今、ここを大切にした受けとめ、そして無量寿に通じる、感動や記念すべき時)でお任せに転じるのです。
 歎異抄の第一章は「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をば遂ぐるなりと信じて『念仏申さん』と思いたつ心のおこる『時』、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり」とあります。
 今の一瞬が「念仏申す時の『今』なのです。無量寿、永遠に通じる今、存在の満足を感得する今なのです。

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