4月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2567)
最近、再読して教えられると思うことを拾い上げてメモとして記録したものです。
現代真宗真偽論(記念講演) 信楽峻麿 真宗研究 vol.46,2002,201-232(前略)真宗は私が仏に成っていくという成仏道です。親鸞聖人が、「念仏成仏するこれ真宗なり」といい、また「本願を信じて念仏申さば仏に成る」という通りです。その意味においては、真宗とは道の宗教です。ひたすら念仏を申しつつ、その念仏においてすこしずつ人間的に脱皮し成長していく、人間成熟、人間成就の道、それが真宗です。(中略)
念仏において信心を開いたならば、「念仏を信じるは、すなわち智慧を得て、仏に成るべき身となる」といわれます。「仏と成る」とはいわない。「仏になるべき身となるなり」といわれます。(中略)
親鷲聖人は九十歳まで生きたけれど、「仏になれない」といった。ここに親鷲の思想における、自己を問う眼の厳しさがうかがわれます。仏に成るべき身となる。仏に成るとは言わない。親鸞聖人における思想の徹底性が知られます。しかし、ともかくも念仏において。人間が成長するのです。愚かな人間、粗末な人間がお念仏申して、すこしずつましな人間に成長して行く。それを信心という。
以下は田畑の受け取め、
法蔵菩薩(阿弥陀仏の仏に成る前の位、因の時、因位という。菩薩が仏に成る、果の位が阿弥陀仏)が「あなたを必ず救う」と発(おこ)された願いが、「南無阿弥陀仏」のよび声となって、煩悩のわが身に響きわたっているのです。このよび声が、わたしの根源的な主体となって、わたしを導いてくださることを、他力の信心といいます。それは如来の光明が煩悩のわが身を照らし、導いてくださる人生です。
法蔵菩薩の私に対する願いが叶(かな)って、仏(阿弥陀仏)になるときが、私が「南無阿弥陀仏」と「念仏した瞬間」です。私が仏の受け(懺悔と讃嘆)とめ南無阿弥陀仏と念仏する時が、法蔵菩薩の願いが成就した時です。(以上、田畑の受けとめ終わり)
親鸞聖人が明らかにした真宗は、お念仏を申しつつ、この現実において、そのお念仏において、確かに育てられていく。人間一人一人が、少しずつ脱皮し、成長していくのです。そのことについて、親驚聖人が『愚禿鈔』において信心を説明するについて、第十八願成就文にもとづいて「信受本願即得往生」という言葉を書き、その下に「前念命終・後念即生」(島地聖典14-8)という言葉を書いています、これは善導の言葉です。かくして「信受本願前念命終、即得往生後念即生」という。ここでいう前念、後念とは時間のことで、前念とは前の時間、後念とは後の時間ということです。
すなわち、本願信受、まことの信心をうれば 前の時間に裟婆の迷いの寿命が終わる。そして後の時間の即得往生する。仏の生命を頂いて、ここから新しい浄土の生命が始まるというのです。そのことが、お念仏において限りなく相続されていくのです。
そのことは前に申した私(信楽峻麿)の言葉で言えば、脱皮と成長を繰り返し、それが深まっていくということです。信心の相続とその反復。深化において人間はいっそう脱皮と成長を遂げていくのです。これについては、親鸞聖人はまた、そういう信心の人を、「必定の菩薩」といい、また「如来と等しい人」ともいいます。その意味においては、真宗とは、まさしく人間成長を目指す道の宗教である、というべきでしょう。
近田昭夫の語録「仏さまはどこに居られますか?」(東本願寺伝道ブックス65。2008年初版)ひとりひとりを目覚めさせて救うということです。ひとりひとりを目覚ますというところに、仏のお助けというものがあるのです。自覚道という仏道の本質に立った「他力の救済」です。
相手の身になって、相手の意中に入って、内からめざます。そういうはたらきにならねば仏に成った意味がないということを誓われたのが、阿弥陀の本願なのです。
「ああ、仏さん(立ち姿の阿弥陀仏(如来)の木像)は私の姿(迷っている)をご覧になって、仏の座に落ち着いては居られなかったのだな」と気づかされるためのお姿なのです。
曽我量深先生の言葉に「仏さまとはどのようなお方であるか。『われは南無阿弥陀仏である』と名乗っておいでになります」というのがあります。つまり、仏さまはあなたの身の内に飛び込んで、あなたの身になって、中からあなたを目覚ますというはたらきになられたのです。
「南無阿弥陀仏」というのが阿弥陀(如来)仏さまの正しいお名前です。「極楽へ行っても、仏さんはお留守だぞ」(一休)と。阿弥陀さんは私のところにやって来て、身の事実に目覚めさせようと働いていて下さる。そのはたらきに出会うチャンネルが、念仏申すということなのです。念仏申すとは、そのはたらきを頂くということなのです。
阿弥陀仏はどこにおいでになるかと言えば、どこにもおいでではありません。では、どこにもおいでにならないのかと言えば、どこにでもいらっしゃるのです。「念仏申す、そこに如来まします」ということです。
仏さまが本願の名号となられた。つまり南無阿弥陀仏という言葉となられたのはなぜか。それは私たちが言葉の世界で迷っている訳ですから、言葉となって私どもを目覚ますというはたらきを表(あらわ)さざるを得なかったのです。
人が悲しんでいる時に、影の如くに寄り添って一緒に歩いて下さる方がいるということは素晴らしいことだけれども、法蔵菩薩はそれではまだ不十分だとお考えになったのです。一緒に歩むだけでなく、相手の身になるということをしなければ、その相手は救われないということです。五劫の思惟、兆載永劫の修行を経て阿弥陀仏とお成りになされたのです。阿弥陀仏と成られたのは、「相手の身になって」という誓いを実現するためなのです。
仏さまらしい姿かたちを捨てて、言葉となって私の中にあらわれてくださった。それが本願の名号なのです。「如来我となりて我を救い給う」というお言葉もあります。そういうはたらきが、「南無阿弥陀仏」という本願の名号です。
如来したまう本願は、相手の身になって、その身の事実を引き受けて立ち上がる力となろうという、未曽有の救済プランだと言ったら言い過ぎでしょうか。
田畑の感想:継続した聞法において、如来の光明(無量光、仏の智慧)が「煩悩のわが身」を照らし、煩悩のわが身に響きわたって裟婆の迷いの生命が破られ転じられ、仏の「いのち、無量寿」を頂いて(根源的な主体となって)、新しい浄土の「いのち」が始まる(他力の信心)ということに導かれるのです。そのことが、お念仏において限りなく相続されていくのです。これが私たちの成長、成熟の人生なのでしょう。
念仏の受け止めは、「いつの間にか雨に濡れていた」、から、ある妙好人が刈り草を牛に背負わせたとき、分かった(納得した)、等の種々の経験談を聞くことがありますが、その様式に囚われたらいけないと教えられています。仏のはたらきを感得(迷いが転じられる)する歩みが知足の歩みとなるのでしょう。 |