5月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2567)

 高校の時、カール・ブッセ(1872-1918)の詩「山のあなた」を暗記するように言われたことがあります。
 山のあなたの空遠く 『幸(さいわい)』住むと人のいふ
 噫(ああ)われひとと尋(と)めゆきて 涙さしぐみかえりきぬ
 山のあなたになほ遠く 『幸』住むと人のいふ (「山のあなた」上田敏の訳が有名です)。
 暗記するとその後の人生の中で、ふと思い出されて、言葉の意味を味うことができます。「言葉」は心や意識に働きかける力があります。言葉によって喜んだり、悲しんだり、頷いたり、勇気づけられたり、落ち込んだりは経験してきたことであります。
 「しあわせ」という言葉が広辞苑(岩波書店)では、「仕合わせ」という漢字で示されて、@めぐり合わせ,Aなりゆき、B幸福、幸運。の説明があります。世間一般では「しあわせ」の意味は普通に「幸せ」や「幸・幸福」の字が使われることが多いように思われます。
 「仕合わせ」の語源を調べると種々あるようで仏教関係では真偽のほどは分かりませんが、語源は、仏教用語に由来していて、「仕」というのは「仕える」という意味を表して仏様に仕えるとか目上の人に仕えるという事を表現する言葉なのです。「仕合わせ」っていうのは、こうした仏様に仕える仕事に巡り会う事、または仏様から仕事を頂く事を指して使われる表現で、こうした仕事に巡り会える事が「しあわせ」だという意味からこの言葉が生まれた、と書かれたものがあります。
 田畑の註釈を添えると、論語に、「季路(きろ)鬼(なみみたま、亡霊)~(かみ)に事(つか)へるを問(と)ふ。孔子曰(いは)く、未(いま)だ人に事(つか)ふる能(あた)はず、焉(いづく)んぞ能く鬼に事へむ。
 『現代訳論語』(下村湖人) 季路が鬼神に仕える道を先師にたずねた。先師がこたえられた。――「まだ人に仕える道もわからないで、どうして鬼神に仕える道がわかろう。」 があります。
 「仕える」には、人間を迷わすものに仕えるということは、迷いや苦悩の悪循環になるでしょう。仏教で迷いの人生を空過流転と言い当ています。実際に生きても本当に生きたことにならない愚痴の人生になることを言います。仏の目には、縁起の法に拠って、固定した我はなく無我であり、「私」や私の「思い」や「感情」は次々に縁次第で変化するので、理性的に冷静に受け止めることの大切さを教えます。そしてその時の思いや感情に振り回される「我が儘」の有り様を「思いや感情の奴隷状態」の執われの状態、不自由な姿と見破るのです。
 仏教では「真実の教え」とは、迷いに振り回され空過流転になる歩みを、仏教(真の教え)との出遇いによって空過流転を超えて「実(みのり)」ある人生であった、と一瞬一瞬に受け取ることができた時、その教えを「真実の教え」と言うようになります。そういう教えに巡り合う、出遇うことを「仕合わせ」と言うのです。「人間に生まれてよかった、生きてきてよかった、私は私で良かった」と受け取れる場になります。
 また別の説明では、「しあわせ」は、「しあわせる(為る+合わせる)」の名詞形として室町時代に生まれた語。本来は「めぐり合わせ」の意味で、「しあわせが良い(めぐり合わせが良い)」、「しあわせが悪い(めぐり合わせが悪い)」と、評価語を伴なって用いられた。江戸時代以降、「しあわせ」のみで「幸運な事態」を表すようになった。更に、事態よりも気持ちの面に意味が移って「幸福」の意味になり、「幸」の字が当てられて「幸せ」と表記するようになった、と出ていました。
 漢字の「幸」は手かせを描いた(罪人が手足に枷(かせ)を付けられている状態を表す)もので、「手かせ」や「刑罰」を意味した。やがて、手かせをはめられる(刑罰にかかる)危険から免れたことを意味するようになり、思いもよらぬ運に恵まれたことから、幸運・幸せの意味へと広がっていった、とありました。
 日頃、海の幸(海でとれる獲物。海藻・魚介類などの海産物)、山の幸(山でとれる獲物や山菜など)と言われるように「幸」は自然界からの恵みを意味して、それが「幸せ」に結び付きます。
 お寺でお話を聞かれる大人に「しあわせ」の漢字を手のひらに書いてください、というと90%以上が「幸せ」を書かれます。このことは多くの人が自分の幸・不幸を決定するのは自分の周囲の条件・状況によるという発想が圧倒的であることを示しています。日本の多くの宗教現象で、神社仏閣へお参りする人の願いごとは「無病息災・家内安全・商売繁盛・願い事成就」です。公共放送と言われるNHKの番組で神社仏閣の紹介にはほとんど「ここの〇〇〇はこういうご利益があると言われ、多くの人の信仰を集めています(お参りがあります)」という趣旨の説明がなされています(残念な限りです!)。
 普遍的(世界)宗教は時代・社会・地域・民族を超えて広がった宗教で「悟り・目覚め・気づき」に深まったものです。それは外の条件・状況をどう受け止めるかの心・意識のあり方が、「豊かな人生」へと結びつくと展開していったと宗教学的に言われています(大峯顕師の「宗教の授業」法蔵館より)。
 仏教伝道協会のカレンダーに、「内を修めないで 外を守ろうとするのは 誤りである(仏教聖典)」という言葉がありましたが、現実(現前の事実)の受けとめ意識の大切さに通じる心を思わせていただきます。
 経済学者であった今村仁司氏は平野 修師との出遇いから浄土真宗に縁が深まり、「清沢満之の思想」(人文書院、2003)を書かれて、その中で普遍的宗教は「存在の満足」へ目覚め、気づいて行くものだと表現されています。
 仏教に縁がないと、貪瞋痴の煩悩に振り回され、どこまで行っても「知足」の世界を知らない餓鬼の在り様に陥ります。全ての物を無限に取り込んでいくブラックホール( black hole は、宇宙空間に存在する天体のうち、極めて高密度で、強い重力のために物質だけでなく光さえ脱出することができない天体である。)のような貪欲(とんよく)の様が思われます。欲はいったん満たされれば、瞬間的に満足してさらに増量や向上を目指す中毒性や依存症の症状を引き起こすか、それがすぐ当たり前になり欲しい思いは消滅し、次なる関心事へと心変わりしていく浮気性を思います。
 仏の世界を涅槃と言います。人間の発想とは異質な世界です。仏のはたらき(智慧と慈悲)を迷える人間へ届けようとして方便法身として南無阿弥陀仏を選び取られて、衆生に届けようと働いている場が浄土です。妙好人才市は「浄土はどこだ、ここが浄土の南無阿弥陀仏」と味わっています。念仏が仏の世界と人間の世界が通じ合う唯一の道(ルート)なのです。智慧を仏の智慧のはたらきの場を浄土と言います。

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