6月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2567)

 記憶は定かでないが約30年前(サリン事件、1995年(平成7年)3月20日の前後)だと思われる。全国紙の新聞記事に「ネパールで偽1万円札が見つかった」という記事が出ていた。なぜか記憶に残ったのは、その記事の説明に「ネパール人たちは本物の1万円札を見たことがないから、偽札を見ても本物か偽札の区別がつかないからだ」と書かれていたのです。
 サリン事件での記事の中で良心的な記者のコメントが目に留まった、それは「本物の宗教を見る眼がないので、偽物宗教を見分けることができるだろうか」、と本音を書かれていた。若かりし頃、私も宗教無関心であったが、日本人の宗教離れは著しい。
 22歳、大学5年生の時、科学者で浄土真宗の教えを説く師に出遇い、その後50年の学びをさせていただいている。その縁で哲学や宗教に関してのわずかな学びの中で、信仰という意味では「多くの日本人は無自覚に科学的合理思考を信仰している」と言われる宗教学者のコメントが受け取れるようになりました。仏教の標語で「損か得か、私の物差し。嘘か真か仏の物差し」があったように思います。
 私自身もたどって来た、実学、経済優先の生き方の中で仏の智慧(無量光)に照らされて自分のお粗末さというかお愚かさをはっきりと知らされています。普遍的宗教の「悟り」「目覚め」「気づき」は私たちの普通の思考の次元の低さ・狭さ、そして煩悩の汚染さを照らし出します。確かに科学技術の進歩は日常生活の便利さ、快適さ、物の豊かさ、効率化、病の治療向上を実現してきました。しかし、日々の生活の満足度は如何でしょうか? 他と比べての豊かさを一時的に感じて「幸せ」と思ってもそれは相対的なもので、比較の思考では優越感は劣等感の裏表です。心の奥底での「知足」には及ばないでしょう。仏教の妙好人(浄土教の深い信心を頂いた人)の「ないものを欲しがらずに、あるものを喜ばしていただこう」の心に触れると、自分の餓鬼根性を恥じ入ることです。
 世間ではほとんど関心がもたれてないことですが、最近、西本願寺(本願寺派)の内部で門主、総長が門徒に配る文章に浄土真宗の教えの基本の所で不適切な表現が記され、良識のある僧侶・門徒から「問題あり」と指摘されているのです、門主を大事(間違いを犯さない、責任を問われない、と世間的にみると異常と感じる)にすると古い体質と歴史的な制度疲労やしがらみに絡んで問題点が山積みして混乱しています。その中で思うことは僧侶が門徒へ正しい教えを伝える取り組みと門徒の人の仏教の受けとめが浄土真宗の正確な受けとめが出来てなくて、まさに江戸時代のお寺―門徒の関係を引き継いできているために形式的な門徒が大部分で浄土真宗の教えの正しい受けとめ、すなわち信心をいただくこと、広い世界に出される世界(目覚め、気づき)の正しい相(すがた)を見分ける目を持つようになるまでお育てを頂く人が少ない。まさに本物を見分ける眼を持って偽物に気づく迄に至っていないがために、本山で問題になっている内容の問題点を多くの門徒さんは知らないままになっています。葬儀や法要をしてくれるお寺という先入観のままで、仏教(浄土教)への理解が表面的で、本山の行政トップの間違った方針に流されてしまいそうなのです。
 宗教離れを世俗化とも言われます。現代社会において合理性や科学が人々の社会生活における全ての確かさを正当化するものとなる一方で、前近代の社会でそれを担ってきた宗教が、その信憑性を喪失していく歴史的プロセスを世俗化と表現するようです。
 私が時々紹介する、宗教学者羽矢辰夫は日本での科学的合理主義の思考の席巻する世界を意識して次のような文を書かれています。
 「私の人生は一回だけで、死んだら終わり。だから、生きているうちに、楽しいこと、心地よいことをするしかない。私だけが幸せになることが、人生の目的である」。この思考は、人によって程度の差はあれ、虚無主義と快楽主義と個人主義が複雑に絡みあいながら形成されているように思われます。
 生きることにほとんど意味を見出せないけれど、生きていかざるを得ないので、その基準を、最も生きている実感を得られやすい、個人の快楽に求めようというわけです。
 とはいえ、いつも楽しく過ごしていたい、それが幸せというものだ、というのであれば、人生の最後は必然的に不幸せです。また、幸せになろうとして、幸せを未来に求めると言うのであれば、現在はつねに不幸せな状態だということになります。今が幸せであれば幸せを求めることはないからです。幸せを求めれば求めるほど不幸せになる、という悪循環に陥ります。
 この人生観の中には、自分の為なら何でもする、他人のことなどかまっていられない、という極端なエゴイズムから、自分が自分自身を大切に思うように、他者も自分自身のことは大切に思っている、だから、お互い仲良くしなくてはいけない、というヒューマニズムまで含まれています。現状では、とりあえず人に迷惑をかけなければという最低の倫理観が、おおよその基準になっているのではないでしょうか(これさえも壊れかけているかも知れません)。
 それでも、けっきょくは「死んだら終わり」です。唯物論的な近代科学の見方が、追い討ちをかけます。というより、近代科学が提示するコスモロジー(cosmology、宇宙の起源、構造、発展についての神話的、哲学的、あるいは自然科学的な理論の総称。宇宙論(観)、世界観)を私たちが受け入れ信仰している結果、といったほうが正しいかもしれません。私たちの世界はすべて物質に還元でき、生命を構成する物質が集積したときに「生」があり、それが分散したときに「死」がある。ただそれだけのことです。「生きている」ことに意味はありません。「生きている」こと自体に意味がないのに、その質(Q.O.L、quality of life)を問う意味はありません。質を問う根拠はどこにもないからです。
 自分がまったく独りで、宇宙の真っただ中に放り出されているような孤独感、どこにも手がかりも足がかりもなく、何をしても同じであるような無力感、そして結局は死んだら終わりという虚無感、日常生活では何の問題もないけれど、なぜかこころが満たされていないような不全感、これらは一種の「病い」といえます。なぜなら、いずれの場合も、生命がいきいきと生きていないからです。
 神学者の森本あんり( 1956年 10月-、 牧師 、国際基督教大学 名誉教授)は、「人間の欲望には限りがなく、世界は有限である。だから人間が近代的な意味で充足することはあり得ない。人生には、自分の手で何かを『掴み取る』だけでなく、『与えられる』という感謝の感覚が枢要である。文化(culture)の深みには、宗教が織り込まれているのである。」と言われています。

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