7月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2567)
「お経」や、お経を注釈した「論」「釈」を書かれた先人の心に触れていくと、人間という存在の有り様を見透かすというか、悟りの視点から人間存在の思考、心理、深層心理、煩悩性を深く・広く見つめた人間分析の内容に驚かされます。仏教の悟り、目覚め、気づきは人間的思考を超えた異質な世界と言わざるを得ません。仏の智慧(物の背後に宿されている意味を感得する見方)の異質な世界からの指摘に、普段の分別思考の狭さ、浅さを実感して自分の愚かさを実感し、終わりなき迷い(苦楽)を繰り返していることに驚くでしょう。
宗教的な先人は法に接して自覚の内容をいろいろ表白されています。中国の善導は「我等愚痴身」、最澄は「愚中の極愚(ごくぐ)、狂中(おうちゅう)の極狂(ごくおう)、塵禿(じんとく)の有情(うじょう)、底下の最澄」、源信は「頑魯(がんろ)の者(智慧の劣った人々)」、法然は「十悪の法然房、愚癡の法然房」「罪悪深重の衆生」「妄想顛倒の凡夫」、親鸞は「愚禿(ぐとく)」「賢者の信は内は賢にして外は愚なり愚禿が心は内は愚にして外は賢なり」、良寛は「頑魯信無比(頑魯まことに比無し)」「大愚良寛」、一茶は「春立つや愚の上に又愚にかへる」と言われています。
西周(あまね)が『百一新論(1874)』において訳出した「哲学」の原語 philosophia (philosophy)の語義は,「智慧(sophia)を愛し求める(philein)こと」ということだそうです。その思索の出発点は,自らにおいて「智慧」の無いことの自覚であり,それがあって始めて「智慧を愛し求めること」が可能となるといわれています。この場合,「智慧」とは単なる知識の蓄積ではない。それは,生と死を明らめる「根源的叡智」と思われます。
初期仏教における愚者の自覚 愚者とは,次のように定義されています、「愚者にして己れ愚なりと想ふは己(すで)に賢なり,愚にして己れ賢なりと想ふ人こそ 実に愚と謂(い)はる」。南伝パーリ語による和訳は「もしも愚者がみずから愚であると考えれば,すなわち賢者である。愚者でありながら,しかもみずから賢者と思う者こそ『愚者』だと言われる。」です。
道元禅師は「仏道を習うとは自己を習うなり、自己を習うとは自己を忘るるなり、…」と言われています。
普通の人間が身に着けている分別思考の世間的な知恵は自我意識があって外の事象をいろいろ観察して自分にとって好ましいものか、嫌なものか。困ったことになるか、嬉しいことになるか。有利になるか、不利になるか。勝ちになるか、負けになるか。自分の評判を落とすか、高めるか。私に苦をもたらすか、楽をもたらすかなどの思考をしています。私はついつい楽な方を選ぶ怠け者の傾向がありました。浄土真宗の七高僧の第一祖の龍樹は仏道を歩む者で根気(こんき)素質能力の劣った弱い、怠け者を怯弱下劣( こうにゃくげれつ 十住毘婆沙論 西聖典注釈版七祖編P.5)と叱るところがありますが、まさに私のことのように思われます。ただし、聖道門(凡夫⇒菩薩)での仏道修行としての求道で、修養として歩む者の根気(こんき)素質能力の劣った弱い、怠け心を叱っているのです。
浄土教(阿弥陀仏⇒凡夫)では、仏教が教える仏の智慧(無分別智)、無量光に照らされて知らされる自分の分別思考(自力)の愚かさは、分別思考に潜む視野の狭さ、自己中心及び分別への執われの有り様を知らされます。しかし、それらには人知で分かるものと、分からないものがあると聞いています。お経やよき師の教え、お叱り、指摘を通して知らされるでしょう。そのためには師へ親しみ、自分のことをよく知っていただくことが大切です。仏の智慧で世間的な知恵を超える世界に驚き、歓喜して感動する世界が仏教です。
仏教の師が叱る事を「畢竟呵責、畢竟軟語、軟語呵責」という言葉で講義を聞いたことがあります。私の仏教の師は若い頃は厳しかったと聞いていますが、私がお会いしたころは柔らかくなられていたようです。講義の中で叱り方を言われたことがあります。あまり厳しく叱ると聞法の縁が切れてしまう。それで叱るときは、十分に引き付けておいて、離れていかないと思うようになって、厳しく叱ることが大事だと言われていました。同時に叱る人の力量が問われるとも言われました。私はあまり叱られた記憶がありません、軟語呵責の叱りの言葉でも私の感受性のなさが理由かもしれませんが。現在の私には仏法に関しては、まだ聞くことで精いっぱいです。私は講義では仏教の知識を紹介するか、仏の徳を讃嘆するお話を心がけています。仏教の領域で叱るということはしたことはありません。私の人生に対する姿勢が甘いのかもしれません。
自我意識(分別思考)の愚かさに目覚める、気づくことが浄土教の受け止めには非常に大事になります。
延塚師の講義で、証の巻の還相回向のところで、「貪欲、瞋恚、愚痴の煩悩を持ったものをどうして救うか、菩薩は真理を見る智慧と娑婆を見る智慧 迷いを見抜く智慧もっている。衆生は一生懸命自我をたてて、それが正しいと思って、それを主張する。そして最後まで自分を譲らない。執着、それをどうやって救うか、智慧によって衆生をよく見ること、それは、あまりに可哀そうだと 執着と言うのは、仏教にあうと今まで正しいと思って自分に執着し、自分を主張し、自分を一生懸命言ってきた。そしてそれは死ぬまで抜けないかもしれない。けどね、仏教の教、真実に逢った時には、その執着は何の根拠もないということが知らされる。根がない。
根があるのは頂いた仏様のいのち、この真実なるものに逢った時に、今までの執着は妄想であった。根がない、妄想が立場を失う。意味がなくなる。しかし、次から次へと起こってくる、だけど立場がないということがいったん分かったものは、もう狂わない。いくらでも起こってくるけれども、なんの根拠もないから、執れる必要がないのだ。正しい根拠は南無阿弥陀仏だけです。法蔵菩薩は人間の執着だけで、なんの根拠もないのだと、それを一生懸命教えようとするのですが、智慧と慈悲と方便、方便は説法です。説法で「違うよ」と教えようとするが、教えようとされている人間の方が「そうだね」と言って、また自分の自我に取り込むから、いくら言っても分からない。
だから不可思議兆載永劫かかった。そして最後に法蔵菩薩はあきらめます。「しょうがない、お前たちはあほや」と、「わかった、それだったら、俺があなたの信心になる。」と言って、法蔵菩薩は、曇鸞大師の論註の一番最後に「もういいと、信心なんて起こすことは無理だ。仏教が分かれと言っても無理だから、だからしょうがないから、俺が妙楽勝真心(みょうらくしょうしんしん、自利利他円満の真実心)、本当の信心になって、あなたたちの中にいのちをすてるのだ」と、こういうふうに論註は書いているわけです。すごいと思いませんか。
つまり大経にないことを書いている。大経の勝行段(東聖典27)にはそういうことはない。信心にまでなるなどとは書いてないでしょう。ところが曇鸞の今のところをずっと読むと、法蔵菩薩が苦労をして、そして、最後にあきらめたと、「おまえたちはあほや」と、しょうがないから俺が信心にまでなって、あなたたちのいのちにいのちをすてるのだと、だから、「この私を用いて仏になれ」と、こういうふうに曇鸞の論註は最後に叫ぶのです。そうすると、これは大経の勝行段の意味を、曇鸞は実に詳しく説いてくださっている。大経にないことまでも、曇鸞は説いてくださった。(引用の趣意終わり) |