8月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2567)

 浄土論(著者は天親菩薩)のはじめに帰敬序があります。それは「世尊我一心 帰命尽十方 無碍光如来 願生安楽国」という言葉で示されています。意味を示すと、「私は心の底から仏の悟り、圧倒的に広く深い大きな世界に頭が下がりました。是非とも仏の智慧の世界を生きてゆきたい」ということでしょう。
 頭がさがりましたが礼拝門、圧倒的に広く深いの表現が褒めたたえる讃嘆門、仏の世界を生きてゆきたいが作願門に当てられています。礼拝・讃嘆が「一心帰命」、作願が「一心願生」であるとお聞きしてきましたが、一心帰命と一心願生の違いとなぜ分けるのかが私にはよく理解できていませんでした。
 延塚師の論文に、『大無量寿経』への信順を、人類で初めて明確に表明したのは世親(天親)の『浄土論』である。それは「世尊我一心 帰命尽十方 無碍光如来 願生安楽国」と、『大経』の阿弥陀如来とその浄土への信心の表明から始まる。この文は言うまでもなく「世尊我一心」という信心が、二つの内容で述べられている。その一つは「帰命尽十方無碍光如来」であり、もう一つは「願生安楽国」という表明である。「一心帰命」は回心を表すから、その対象は尽十方無碍光如来である。(中略) もう一つの「一心願生」の方は、回心に始まる願生浄土とか難思議往生という念仏生活であるから、その対象は浄土である。(中略) このように一つの信心であっても、二つの契機で述べられその対象が一応区別されているのだから、一心帰命と一心願生とを混同してはならない。
と記されています。そこには大事な点としてまず「回心」が説かれています。回心とは自分の発想が翻(ひるがえ)されることを言います。直に100%翻されるかというと、そうではなく、生身を持つ私自身が思考の基本の中心に据えていた分別は、いわば骨の髄までしみ込んでいますから、残ります。しかし、量的に言うとほんの数%でも仏の智慧(分別思考からいうと、分別を超えた異質思考)を受け取り知らされると、それは量的にはわずかであっても質的には大きな影響を受けるようになります。
 親鸞は自力の心を翻すことを著作『唯信鈔文意』で次のように述べています。
 「回心」というは、自力の心をひるがえし、すつるをいうなり。(中略)自力のこころを捨(す)つというは、ようよう、さまざまの、大小聖人、善悪凡夫の、自(みずか)らがみを善(よ)しとおもうこころをすて、みをたのまず、悪(あし)きこころをかえりみず、ひとすじに、具縛の凡愚、屠沽(とこ)の下類、無碍光仏の不可思議の本願、広大智慧の名号を信楽(しんぎょう:素直に受け入れれば)すれば、煩悩を具足しながら、無上大涅槃(仏の世界)にいたるなり。
 仏の智慧に触れてみると人間の苦悩、不安は分別思考に根差していることを知って驚かされます。分別して自分に不利な状況やマイナス価値に直面して悩み、それを取り除いて有利な方向へ進めたり、プラスに転じさせようとします。そしてその課題を自分の思いに沿って対処・改変して管理支配して事態を通そうとしてきました。その管理支配できないものが苦悩や不安の根源になっているのです。苦悩の原因は外の状況によっているという思考です。分別を無分別に転じるのが仏の智慧です。
 お経(仏説無量寿教)の言葉に、
「田あれば田に憂へ、宅(いえ)あれば宅に憂ふ。牛馬(ごめ)六畜・奴婢・銭財・衣食(えじき)・什物(じゅもつ)、またともにこれを憂ふ。思(し)を重ね息(そく)を累(つ)みて、憂念(うねん)愁怖(しゅうふ)す。(中略)田なければ、また憂へて田あらんことを欲ふ。宅なければまた憂へて宅あらんことを欲ふ。(中略) たまたま一つあればまた一つ少(か)け、これあればこれを少く。斉等(さいとう)にあらんと思ふ。たまたまつぶさにあらんと欲へば、すなはちまた糜散(みさん、消え失せる意)す。(『大無量寿経』下巻 西聖典注釈版54)
(田があれば田に悩み、家があれば家に悩む。牛馬などの家畜類や、金銭・財産・衣食・家財道具、さては使用人にいたるまで、あればあるにつけて憂いはつきない。…また、田がなければ田を欲しいと悩み、家がなければ家が欲しいと悩む。…なければないにつけて、またそれらを欲しいと思い悩む。たまたまひとつが得られると他のひとつが欠け、これがあればあれがないという有様で、つまりは、全てを取りそろえたいと思う。そうして、やっとこれらのものがみなそろったと思っても、それはほんの束の間で、すぐにまた消え失せてしまう)
 経典に示された通り、物に憂い、事柄に憂い、人に憂いながら生きる私たちの姿です。ここで言えることは私の周囲に物や財産が有る・無しの事象が私を苦悩・不安にするのではなく、それらを受けとめる心・意識の要因が私の苦悩・不安を引き起こす大きな原因という事実です。そして、その事を知るところから仏法の扉が開かれていくことも知らなければならないのです。
 延塚師の論註講義録に、人生の中で刀折れ矢尽きるとき「尽十方無碍光如来」の方から我が身が照らしだされて、愚かであることが初めから見抜かれていたと頭が下がる。「汝、一心に正念にして直ちに来れ」と呼ぶ本願召喚の勅命に帰して、初めて「一心帰命」の信が起こるのです。だから「願生」という念仏生活を成り立たせている根拠こそ「一心帰命」なのです。帰命すべき仏がはっきりしなければ、国土荘厳(形なき仏の働きの場、浄土を人間に分かるように示す)世界は理想や憧れ、夢に終わります。
 しかし、『大経』の浄土は違います。阿弥陀仏に帰した時には、すでに阿弥陀仏の世界に包まれているのです。「一心帰命」の信心は、たとえ身は凡夫であってもそのままで阿弥陀の大涅槃の覚りに包まれている。その阿弥陀仏の世界が浄土ですから、と記されています(引用おわり)。
 第18願、成就文は「諸有衆生、聞其名号、信心歓喜、乃至一念、至心回向、願生彼国、即得往生、住不退転、唯除五逆 誹謗正法。」とあり、これを通常の漢文として読めば『論註』のように、「諸有の衆生、其の名号を聞きて、信心歓喜して、乃(すなわ)ち一念に至るまで、心を至し回向して、彼の国に生ぜんと願ずれば、即ち往生を得、不退転に住す。(後略」) と読むべきところ親鸞は、「あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん。(信巻 P.250) 「乃至一念、至心回向」の間に〇を加えて、分けて読まれたのです。そして後半を「至心に回向したまへり」と訓じられて、衆生から仏への回向ではなく、仏から衆生への回向であると読まれたのです。それは本願力回向の宗義をこの経文に読みとられたからでしょう。 阿弥陀仏より回向された信心の智慧によって成就文の経文を読み取られたのです。
 浄土教は凡夫に対する方便の教えであって、「凡夫は覚りを悟ることはできない」し、「仏道を歩くこともできない」という批判に対して、「凡夫であっても他力の信心には、本願力によって大涅槃が開かれる」と、「凡夫であっても如来の欲生心の回向によって命終わるまで大涅槃に向かって歩めるのである」と、この二つの証明をもって大乗の批判に答えるのです。このように『大経』の本願の信心は、涅槃を開く「一心帰命」の回心と、涅槃に向かう「一心願生」の往生という、二つの契機によって衆生に現れるのです。

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