10月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2567)

 私は仏教の師より、若いころから「仏教の原典を学びなさい」と仏教の講義の中で言われていましたが、古文・漢文の高校時代の苦手意識は抜けきれず、逃げて回っていたのです。しかし、医療の仕事も減らして時間が出来そうになり、お育て頂いた僧伽(サンガ・求道者の集い)の「一緒に学びましょう」という動きに関わりが出来、新型コロナ感染症を機会にズーム(zoom)という世界中の人が参加できるインターネットが使えるようになりました。家庭に居て有志の集いの勉強会ができるようになり、私もこの機会を逃すと師のお勧めに従わないままで人生を終わりそうであるとの認識を強くして心の内の「原典を学ぼう」との方向性に舵を切った次第です。
 龍谷大学大学院での10年間の院生との学びは、それまでの仏教の学びと40年間の医療の仕事から、「医療と仏教の協働」という取り組みでの学びをしてきました。
 大学生時代から聞法の仲間で、宗教者としての道を進んだ人、定年等で区切りをつけて仏教の学びに一段と歩みを進めている人たちの進展を目の当たりにして遅ればせながら、私もそういう仲間(御同胞、御同行)の歩みの後を追いながら学ぼうと心を新たにしました。学びきれるかどうか分かりませんが、天親・曇鸞の浄土論註の原典に学びながら先人の学びの蓄積を参考に歩もうとしているのです。2年前から助走みたいに学びはじめ、跳ね返されながらも、くらいついております。
 仏教の師より、本当の友とは「勧・証・護・讃」の働きをする存在だとお聞きしていました。「勧・証・護・讃」とは、「勧」とは、この道を歩むことを勧めてくれる働きをしてくれる人である。「証」とは、一歩前を歩き、この道の正しいことを証明、証(あか)しだてしてくれる存在である。「護」とは、この道から逸れそうになると、それから護(まも)ってくれる用(はたらき)をしてくれる。「讃」とは、その道を歩み始めると褒(ほ)めて励ましてくれる。
 そして仏法を聞き、学び始めると、「友が与えられる」とも聞いていました。
 師を通して、僧伽(さんが)を通して、「友が与えられる」ことの確かであったと実感しているところです。
 原典を学ばないと仏教は受け取れないのかというと、浄土真宗ではお寺で長年法話を聞くことで、原典に学ばなくとも、仏法を喜ぶ人を確実に誕生させてきた歴史があります。
 仏教の勉強はしなくても定期的な確実な聞法は大事です。長年の聞法によって身体の中に仏の智慧がしみこむと言われています(毛穴仏法)。身体を法が説かれている場に置くことが大事です。
 仏教の言葉に「度無所度」(証巻の最後の方)の表現があります。「度無所度」の意味をたずねてみると、読み方は、「度するに、度する所無し」「度するに、度される無し」の心でしょうか。その心を考えてみると、「わしが救ってやった」というような形で救われる人は一人もいない。救われる人は教えを聞いてゆく歩みの中で、種々のご縁が熟して本人の気づき、目覚めで信心をいただくのです。演奏する人はいないのに琴が自然に鳴るが如くという表現がなされています。
 ある僧侶が学校の理科の授業で使う「音叉」を二つ用意して、ちょっと距離を離して向かい合わせにおいて、一方の音叉を叩いて音を出すと、もう一つの音叉が共鳴して自然を音を出し始めました。叩く人(琴を演奏する人)がいなくても、ひとりでに音を出すようになります。そういう譬えでしょう。仏教の教化は、教える人は教えるという意識はほとんどなく、自分の出会った仏の世界を褒め称える(讃嘆)のです。そうするとその心に触れた人は縁熟して気づき、目覚めへ展開するのです。教えを受けた人は私の先生(ご縁のある師)はだれだれさんです、という表現をするでしょうが、仏教の師は「ご縁を作る働きをお手伝いしたかも知れませんが、『私が教えてやった、救ってやった』なんて決して言えません」と言われるでしょう。
 私の講義の中で細川先生の言葉をたびたび紹介しますが、その中で「仏さんはいらっしゃいますか?」という問いがあります。その問いに答えることができるようになってきたら、次の問いがあります。それは「仏さんはどこにいらっしゃいますか?」という問いです。これらの問いは答えを知っていたらよいのではなく、「問いを持つことが救いです」と言われていました。
 「仏さんはいらっしゃいますか?」という事を考えるとき、私の迷いの姿をはっきりと知らせてくれる仏のはたらきを感得していますか、という事に関係するという事です。そして救われ難い私の迷いの相(すがた)に気づき、その救われ難い衆生の「有り様」に、法蔵菩薩は衆生済度の思索を修行として続けながら、「もう人間に悟りというようなことは期待しません、諦めました。私がその苦悩する人の中に南無阿弥陀仏となって、身を捨てましょう、そして信心になりましょう」と長い間、働いておられたのです。その働きに縁あった触れるとき、私一人のためにご苦労されていたのかと自然と頭が下がるのです。
 平野修先(九州大谷短大教授、多くの人をそだてられました。多くの講義録は残されています)の講義録のなかに教化を受けて信心を頂いた人は自然と有縁の人に働きかけ「一緒に聞いていきましょう」、とご縁のある人に働きかけ、そして仏教の会座の準備などの「お手伝いをするようになる」のです、と書かれていました。
 私自身の経験ですが、依然と、聞法して悪戦苦闘しながら生きていますが、本当に分かったとは到底言えないながらも会座を主催したり、お話を厚かましくさせていただく中に、70歳を過ぎるまで経験を積み重ねながら、私とのご縁で仏道を歩み始めたり、さらに歩みをしっかりとしてゆこうとされる人に巡り合うことがあります。到底私が教えたなんて思われません、私は私の受け止めと、師との出会いを喜んだり仏教の讃嘆をすこしさせていただくばかりです。日常生活の中では私は恵まれている方でしょうが、いろいろな問題が出てきて分別思考で苦しんだり悩んだり、不安になり眠れなかったり、心はまさに天国から地獄の間を輪廻して生きています。そんな思いの時、念仏しますが、そう簡単に解決はつきません。そこで「この現実は私の何を教えよう、気づかせよう、演じさせようとしているか」と受け止めようとしますが…。
 「仏さんがいらっしゃいますか」に関して仏教の師が講義の中で、「私を縁として、仏道を歩み始める人がもしいたら、それが私が働きかけたからとは到底思えないのです。そこに仏のはたらきあり、仏がいらっしゃると、仰ぐばかりです」の趣旨を聞いたことを思い出されます。

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