12月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2567)

 仏の世界を涅槃と言います。私たちから言うと煩悩の滅した空の世界でしょうか、我々の分別を超えた無分別の世界です。浄土という場は仏のはたらきの及んでいる所、涅槃とこの世を含んだ世界と言えるでしょう。涅槃とこの世は次元が違うが浄土は両方をまたぐ世界、仏が迷える人間を救わんがためにこの世に働き出ている場と受け止めると理解しやすいでしょう。仏の世界を知的に理解してもそれは救いとは別のことです。救いとは、迷いとそれがための苦悩を超えた安心(あんじん)の世界(浄土)に身をおくことです。
 天親菩薩の浄土論には浄土の世界、「究竟して虚空のごとし 広大に偏際なし」表現されています。分別思考では考えることのできない世界です。その受け止めとして、広大に偏際なし、という心はそこではだれもが辺縁を感じさせない、即ち「中心に居る」と感じる世界です、分別での窓際族とか廃品というような思いにさせない世界です。浄土は私一人のために仏や世界は働いていると感じる世界です。
 浄土は愚かな欲まみれの凡夫のためにはたらきかける世界ですから凡夫にも理解しやすいように二種類に表現されています、「真実報土」と「方便仮土」です。浄土は苦悩する迷える凡夫を救わんがために、念仏(南無阿弥陀仏)するものを全て浄土に迎えとると浄土(地理的な場所ではなく、概念的な仏のはたらきを感じる場)を創られたのです。だから「広大にして偏際なし」とされているのです。仏の心を素直に受け止める人は「真実報土」、仏のまん前で法話を聞くことのできる場です。一方「方便仮土」は仏の心を受け取れない者(如来の広大な恩徳を受け取れない者)のための場所です。浄土は法話を聞き教化を受け、修行するのに条件の整った場です。法話を聞きやすい条件の整った場ですから、法を素直に聞くようになって、仏の心に触れて念仏してイキイキと生きる存在となって、成仏(人間を超えった存在、成熟した人格者)するとされています。
 念仏のご縁は出来ても、なかなか念仏の心の深さのために仏の心にピッタリと触れることは大変です。法然は浄土教がほとんど理解されていなっかった日本の時代状況の中で、善導大師の言葉に触れ浄土教に目覚められたのです。その同じ頃比叡山で仏教の学びで壁にぶっつかっていた親鸞もまた、縁熟して法然上人に出遇って学びの壁を超える浄土教に導かれたのです。法然上人の著作「選択本願念仏集」の中にある有名な三選の文があります。
 「それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門(自分で立派になる道)を閣(さしお)きて、選んで浄土門に入れ。 浄土門に入らんと欲はば、正・雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛(なげう)ちて、選んで正行に帰すべし。
 正行を修せんと欲はば、正・助二業のなかに、なほ助業を傍(かたわ)らにして、選んで正定をもつぱらにすべし。 正定の業とはすなはちこれ仏の名を称する(念仏)なり。称名はかならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑに」と。
 念仏することの大事さを浄土教は共通して説きます。釈尊をして仏陀(悟った。目覚めた人)たらしめた法の世界を阿弥陀仏(智慧・無量光、慈悲・無量寿)の世界と言います。
 有名な豊後高田市の富貴寺の阿弥陀仏は座像です。悟りに到達したことを象徴的に示します。一方、東西の四日市別院(宇佐市)や浄土真宗の寺院の阿弥陀仏は立像で前傾姿勢を示しています。仏となった阿弥陀仏が浄土から(象徴的に蓮の花から立ち上がった姿)この世に戻ってきて、迷える衆生を救おうとして言葉(南無阿弥陀仏)となった仏を木造で象徴的に示しているのです。釈迦仏と阿弥陀仏の木造は手の印相が違うだけで他はほとんど同じだそうです。言葉となった仏(南無阿弥陀仏)は言葉に込められた智慧と慈悲(仏の寿)を迷える私に届けようとされているのです(働きかけ、呼びかけ、呼び覚まし、仏の世界へ呼び戻す)。
 具体的には「汝、小さな分別の殻を出て、大きな仏智の世界を生きよ」「念仏するものを浄土に迎えとる」などの意味を含みます。
 普通仏道を歩もうとする人は自分で心身を律して、悪いことを止めようとする修行をします。大学の同級生夫婦が四国のお遍路道を少しづつ分けて走破していると聞きました(聖道門タイプ)。自分が心身共に立派に成ろうとする歩み、いろいろと心身を修める行はやってみて始めて困難な道だと気づくでしょう、そして念仏一つの方向性に納得するようになります。そして仏の智慧を頂きながら念仏して仏道(浄土教)を歩むことに導かれます。
 長年の自分の人生経験に照らしても煩悩まみれの怠け者を自認する人は浄土教に向いているです。浄土教こそすべての人に可能な仏道です。素直に法話を聞き続け、仏の心に触れ者は、念仏の心に触れてゆくのです。そして念仏してこの人生を、仏の智慧を頂いて歩もうと方向性が定まってゆくのです。これが法然の三選の文に沿った方向性です。
 仏法に触れるという場合、真実報土というよりも、多くの場合は自力の根性が混じっているので辺地に往生するのです。念仏は私がした。仏法を聞いても、私が聞いたんだ。そういう根性に、自力の執心が残る。それは本当の信心から離れます。法然上人は浄土教、念仏の教えを日本に広めるという大きな願いがあったのです。そういう自力の根性が混じっていても、念仏申したり、仏法を聞いたりする中でで、浄土に救われるように(純粋な他力の信心へ)導かれるのです。浄土で(「方便仮土」から「真実報土」へと)もう一度育ててもらうということになるのです。
 念仏申すようになったのだが、念仏する心根が最後に問題になるのです。南無阿弥陀仏は仏の行、仏のはたらき、大行と言います。「大」が付くときは仏のはたらきを示します。幼い子供が親を呼ぶ時、子供に親を呼ばしめる背後には培われた一体感、信頼感があるからでしょう。それは子供が作ったものではなく、日頃の親との接触の中に子供の内面に育まれた一体感・信頼感があり、親心の雰囲気が子供をして呼ばしめる動作を引き起こしているのです。
 純粋に仏様の働き、他力が信じられるということは、自分の意志とか、努力ではできません。与えられるものだ。自分の中に起ってくるものだ。仏様からいただくものだと受け止めています。
 今わたくしには本願を深くいただく心が起きている、と思う人は、それはその人の努力とか、能力があるということではない。お育てを頂く歩みで『縁』が熟したからなのです、『縁』が。私が教えを受け取るか、そういうことは人の努力とか心がけではなくて、与えられるものです。熱心に教えを聞くという心を仏様からもらっている人が、熱心になるのです。まだ貰っていない人、貰っていることに気づいてない人は熱心になることはない。その人の、努力不足とかその人間の問題でない、『縁』が熟すか熟さないかです。熱心になるかならないか、こちらの問題ではなくて、それは縁が熟しているか熟さないかなのです。そのように育てられているか、いないかなのです。
 仏の智慧をいただくことを「信心をいただく」というのです。分別知の思考の迷いに立ちすくむ一瞬、一瞬射してくる無量光に翻(ひるがえ)されて、「念仏申さんと思い立つ心の起こる時」、無分別智の世界に転入せしめられる、「摂取不捨の利益にあづけしめたもうなり」(懺悔と讃嘆を伴う)なのです、転入は常に「今」なのです。

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