1月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2567)

 私たちの人生にはいろいろな問題があります。私を取り巻くいろいろな状況、すなわち人間関係、家庭や職場、社会、経済などに関する問題、外界に目を開くと、大雨、干ばつ、台風、火山噴火,地震など自然災害、人間が引き起こす紛争や戦争…。最近はニュースを見るのが嫌になります。私と外の状況の関係の濃淡によって私に種々の苦悩、不安を引き起こしてきます。その苦悩にどう対応するかは身近な問題です。しかし、仏教では人生において最も大事なのは「私が」問題だというのです。
 普段の日常生活で、私たちは「私が」ということは全く問題にしていません。家庭や社会生活での「私の」直面する問題(私の外に多くは存在)を解決しようと、朝から晩まであくせくと取り組んで、ストレスを感じながら忙しい大変だと思っています。しかし仏教の基本は、そんなこと一つも問題にしないのです。ただ一つ「あなた自身が」問題だと教えるのです。
 仏教は、私の外の種々の問題を無視しているのではありません、縁次第では種々の問題は起こるのは必然のことだと受け止めて対処することには変わりありません。空間的、時間的、社会的、歴史的など、さらに人為的にも因縁次第ではいかなる事象も起こってくる、それらを受けとめて、これが私の背負うべき現実、南無阿弥陀仏、と粛々とクール(無分別智に近い受け止めで)に対応していくのです。その結果は縁起の法に従って展開することですからそれに振り回されることは少ないでしょう。
 「『私の』問題」にする日常生活のいろいろな課題の解決は、仏の智慧の応用であり、二義的なことだとしています。日常生活の種々の問題に取り組むあなた自身はどういう存在か。「私が」という問題が分からなかったら、人生の問題の根本的な解決はできないと仏教は教えています。
 私たちは自分の直面している問題の方が、自分の問題(「私が」を問題にすること)より大切だと思っています。だから仏教のいう一番大事な「私が」の問題は、普段は問題にしないか一番後回しにしています。「私が」が問題になるなどとは私の発想にはありません。
 新型コロナウイルス感染症は第9波を迎えて、2023年末に減少傾向も見られたのですがまた感染者数が増加傾向になります。当地域のコロナ患者を主に対応する宇佐市医師会病院は満床で外に紹介してくださいと言われていまして、どこまで増えるか心配です。コロナワクチンは最初の頃に比べると感染予防の効果は低下して、インフルエンザの予防接種と同じぐらいの効果になっています、そのため感染予防と重症化率低下の効果を期待して、高齢者や基礎疾患のある人には接種を勧めています。コロナのワクチンは自分を守ると同時にもし感染すると他の人に病気をうつす可能性があるからあなたの周囲の人の為にもなるということです。医学教育を受けた者として私は、予防接種を受けていますし、接種を勧めています。そして病院で仕事として予防接種をしています。
 しかし、ワクチンや薬剤には100%安全というものはないようで効能書きには副作用が必ず示されています。国は総力あげて国民の命を最大限守ろうとします。それは私の外の状況(国民という集団)を問題にしているのです。一方、国民の多くの個人的感情の本音(私が大事)は、自分と個人的縁者の命を守りたいのです。統計学的にコロナのワクチンで多くの命が守られた事実は統計的に示されていますが、副作用は少ないながらも必ずあり、それが原因で亡くなられた人もいます。
 人体を対象とする医学・医療は未知の領域も多く、100%安全・確実というものはありません。そのためにいわゆる「最大多数の最大幸福」を目指す国の立場と個人の意向(幸福)の両方を満足させることは出来ないのです。そこが「私が」と「私の」問題に関係するのです。
 「私の問題」というときは私の存在は当たり前(私のことは私が一番知っている)として、そのことはほとんど考えずに「問題」の方を主に思考しています。私がどういう存在か、私の心の内面はどうなっているかなどは思考しません。
 しかし、仏教の心の内面の先輩方の思索の文化に触れると人間の心の本質を深く分析していることにおどろかされます。
 世間的に最大多数の幸福を目指す取り組みが政治、経済、社会などの活動です。その時に問題になるのは、私を取り巻く周囲の状況の課題です。私という自我意識がはっきりあるという前提で、私の周囲の条件・状況を客観的によく観察して、因果関係を見定めて善い方向に対応するのが普通の思考です。
 ところがお経の中に「田があれば田に悩み、家があれば家に悩む(略)、田がなければ田を欲しいと悩み、家がなければ家が欲しいと悩む。」の趣旨の一節があります。経典に示された通り、物に憂い、事柄に憂い、人に憂いながら生きる私たちの姿です。ここで言えることは、私の周囲に物や財産が有る・無しの事象が私を苦悩させ不安にするのではなく、それらを受けとめる心や意識が、苦悩や不安を引き起こす大きな原因という事実です。そうすると我々が課題の原因と考える外の事象を改善させたり除いても根本的な解決にならないということでしょう。
 幸福の「幸」の語源を調べてみると、中国大陸最古の王朝・殷(紀元前1600─1046年)の首都の遺構(殷墟)から出土した甲骨文字によるといいます。木か竹の二本の棒の間に手を入れて両側をひもでくくり、手かせをした状態を示すと知ってびっくりしました。手かせをされた状態がなぜ「幸」か、それは殺されずに生き残ったことの幸せという意味のようです。古代中国の王朝と王朝との戦いの凄(すさ)まじさを思います。そのことは「幸せ」ということが相対的なことであることを教えられます。
 私の小学校の頃、井戸水を釣瓶(つるべ)で汲み,かまどでご飯を炊き、風呂を火で沸かし、冷蔵庫もなく、洗濯機もなかった。現在の、家事のための電気用品の豊富さは隔世の感があります。さらに通信機器、交通の手段は当時からすると夢のようです。しかし、現在を生きる人間の心・意識に引き起こされる不安や苦悩は約60年前と全く同じだと思われます。
 仏教の師より、人間の迷いの大元は、「物事を対象的に見る」所にある、と教えられましたが、そのことに気づくのにかなりの時間を要しました。そして、その事を知った私たちは、目覚めた仏の目には固定した「我」はなく、「無我」「無常」であるとの指摘に驚き、気付くところから、仏法の扉が開かれていくと思われます。
 無我・無常といっても、今ここに私はあるではないか。あるのですが、その私は無数の因や縁によってつくられ、支えられ、生かされて存在するのです。そして一刹那ごとに生滅(死)を繰り返している。医学的にいえば、縁次第ではいつ死んでもおかしくない在り方で、かろうじて生かされて存在しているのです。
 「私が」問題とは、私が考える概念は分別思考で基礎づけ構築されています。
 分別は物事を計算的に思考して物事のからくりを把握して、自分の思いを通したい、管理支配しようとします。しかし、思い通りに事が進まない時、苦悩や不安が生じます。我々を苦しめる元凶は私の分別思考なのです。
 仏の智慧、無分別思考を知らされると私の分別思考の狭さ、融通のなさ、不自由さを知らされ、そしてその思考の背後にどっぷりと煩悩で汚染されていること知らされます。仏の智慧によって我々の思考様式が次元が低く、狭く、愚かで迷いを繰り返していること照らし出されるのです。仏智に縁がなければ本人は気付かずにこんなものだろうと思って過ごしています。苦悩や不安の大元に分別思考が原因としてあることを知れば、それを超える道が仏道だと知ることの展開があります。
 無我・無常なのに我ありとするために私の思いや感情に振り回され、結果として隷属することになっています。しかし、当人は気づかず「私の自由にさせてくれ」と主張します。哲学者・神学者、森本あんりは、「思い(執れ)や感情の奴隷になるな」と注意しています。

(C)Copyright 1999-2024 Tannisho ni kiku kai. All right reserved.