3月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2567)

 仏教は我々の分別思考の問題点を指摘して、無分別智の思考を勧めるのです。無分別智を勧めると言っても、我々に無分別智の生活が日常にできるわけではありません。無分別智の視点から我々の分別知を照らし出して、人間の不安・苦悩の原因を作り出している大元が分別思考ですよと気づかせようと働く世界が仏教ですということです。無分別智の世界を悟り、仏の智慧、空、涅槃、浄土と示されているようです。
 浄土を目指すような方向性の生き方で、仏の智慧に照らし出され、生きる姿勢を正され、浄土を感得しながら生きるように導かれるのです(往生浄土の歩み)。
 仏智と接点がないと、分別思考で周囲の存在(人を含む)を対象化して認識(私−彼・彼女・それ)し無意識の内に物や道具のように見て人間的関係性を疎外する傾向に陥るでしょう。分別の背後に煩悩性が潜んでいて操ろうとするからです。
 我々の普段の思考の受け止めは、私がいて、外に家族、近所の人たち、職場の人間、お寺で縁のある人たち、家の周囲には木や果樹が植わっている、隣の家があるなどと受け止めています。これを対象化というのです。仏教では対象化を我々の迷いの大元と指摘します。なぜか? それは仏の智慧ではすべてが関係性存在であり、私の周囲(近い、遠いを含んで、あたかも漁網の網目の結び目のように)の存在は我々が考えるより密接な関係性の中に生きていると指摘します。
 イスラエルの神学者、マルティン・ブーバー(1879-1965)の思想は「対話の哲学」と位置づけられます。対話の哲学とは「我」と「汝」が語り合うことによって世界が拓(ひら)けていくという(著作『我と汝』)。ブーバーによれば科学的、実証的な経験や知識は「それ」というよそよそしい存在にしか過ぎず、「我」はいくら「それ」に関わったとしても、人間疎外的な関係から抜け出すことはできないというのです。その「我−それ」関係に代わって真に大切なのは「我−汝」関係であり、世界の奥にある精神的存在と交わることができるという。そして、精神的存在と交わるためには相手を対象として一方的に捉えるのではなく、相手と自分を関係性存在として捉えること、すなわち対話によってその「永遠のいぶき」を感じとることが不可欠だとしています。
 対象化(3人称的)して捉える相対分別思考は、親しい友人や家族・恋人でさえも物・道具化してしまうと指摘するのです。科学や医学は対象化して客観性を尊重した文化です。確かにこれらの進歩で現在の衣食住の環境、交通・通信機器など便利で快適な生活、健康で長生きが実現できています。
 しかし、多くの人々の人生の課題、孤独・虚しさ・不安・苦悩を軽減はしていません。
 ブーバーは人間の思考の根源語は、単独語ではなく、対応語である」と言っています。私の周囲を3人称的に見ていく発想を「単独語」として見るということです。対応語は「我-それ(3人称、it, he, she)」 と「我−汝(you, 2人称)」と受け止めるのです。仏教の受け止めは網の網目のように全ては密接な関係性、「我−汝」の関係だというのです。お経の中で法蔵菩薩(阿弥陀仏)から悩める我々に方便法身(名前となって仏の智慧と寿を届けたいという願い)の言葉「南無阿弥陀仏」が言葉になった仏として観経に示されています。その心は「汝、小さな分別の殻を出て、仏の大きな智慧の世界を生きなさい」という呼びかけなのです。自分の分別の狭さに目覚め、煩悩に汚染されていることに気づいてその分別思考を翻(ひるがえ)して、仏の教えの如く生きよう、との呼応の表現が「南無阿弥陀仏」、念仏の生活です。
 この世は分別思考でなければ生きていけません、その生活の中で仏の呼びかけに呼応して念仏するというところに、仏の心を「南無阿弥陀仏」と受け止め(念仏)て生きる姿勢が正される歩みに導かれるのです。
 仏教には、インド大乗仏教思想の二つの頂点と言われている、「空・中観」の思想と「唯識」の思想があります。「唯識」の思想は無着や天親に代表され、「無明」と言われる私たちの心の闇のしくみを体系的に明らかにしています。その唯識には、三性説「分別性」「依他性」「真実性」というものの見方があります。
 「分別性」とは、先天的にものがバラバラに存在しているというものの見方である。つまり単独語としてものを対象的に見る見方である。それをブーバーは、「単独語は、根源語ではない」とし、あえて語らず、いきなり対応語から話を進めています。
 しかし仏教は、単独語からものを見る人間の迷妄性を問題にしています。
 (私)(それ)(あなた)などが別々に先天的に存在していると見る認識能力を「分別知」といい、「分別知」によって「分別性」は成り立っています。「分別性」は、我執がつくりだした虚妄分別でしかないが、それが日常的であまりにも当然のごとくになっているため、無意識にそのような発想で物を見、考えて、それを常識として生きているのが私達です。唯識はこの「分別性」の上に築かれる世界は顛倒妄想(迷い)の世界であることを明らかにするのです。
 「依他性」とは、一切のものは互いに依存しあっているという見方である。
 釈尊は、この世の中の出来事は全て、因と縁によって起こり、縁が合えば生じ、縁が離れれば滅びるもので、固定的な永遠不変の実在はなく、「すべてのものは他に依っている(関係性存在)」という「縁起の法」を説いています。
 縁起とは因縁生起の略で、因縁によらず単独で生起するものはないというのが釈尊の教えです。これはだれも否定できない事実なのです。これがブーバーの言う「対応語」の視点です。
 問題は対応語には〈われーそれ〉と〈われーなんじ〉の二つがあるということです。著作「我と汝」の訳者は次のような「訳註」をしている。「〈われーなんじ〉、〈われーそれ〉というようにかならず対応していて、他の対応は存在しない。単独に〈われ〉、〈それ〉が結びついて根源語をつくっているのではなく、〈われーなんじ〉、〈われーそれ〉の根源語が、これらすべてに先行している。」だからブーバーは、単刀直入にこの正しいものの見方である対応語から話をはじめるという指摘をして、〈われーなんじ〉という根源語と〈われーそれ〉という根源語がすべてのはじまりである。それ以外はありえないと。しかし、私たちは「ありえない」考え方にまずとらわれて生きています。それで仏教は、「分別性」つまり「単独語」からものを考えることの迷妄性(非人間性になる、全体が見えてない、煩悩に汚染)を明らかにし、それを超える道を私たちに明らかにする事から始めています。
 「真実性」とは、一切のものは根源的にはつながり合っていてひとつ(一如)のものであるという見方であり、本来的にはすべてのものは相を離れた無相のものであるというのが真実のすがたであるというので「真実性」という。真如、一如ともいう。これを見抜く智慧を「無分別智」といい、いわゆる「般若の智慧」でです。
 問題は、「分別性」から「依他性」を見るか、「真実性」から「依他性」を見るかです。
 「分別性」から「依他性」を見る視点。
 単独語は「分別性」の問題を抱えて、「縁起の法」に反しています。釈尊が否定されています。しかし、釈尊の否定された「分別性」から「依他性」を見る、つまり別々の存在がまずあって、それからつながりを見る視点、これが私たちの普通の物の見方です。たとえば、一本の竹を考えてみると、竹には節の部分と腹の部分があります。「分別性」の視点は、初めから竹の「節」と「腹」が別々にあり、その別々の「節」と「腹」がつながって竹ができたという視点です。
 人間にあてはめれば、手や肩や胸や胴体や足が別々にあって、それがつながって人間ができるという視点です。現代の科学的思考方法の基礎をなしています。こういう思考方法を仏教では分別知というが、「竹の節だけを持ってきて下さい」と言われて、「節」だけを持ってくることはできない。どこからどこまでが「節」であるかを決めることは不可能なことだからである。その不可能なことを根拠にする虚妄な視点から関係性を見ることが、ブーバーのいう対応語〈われーそれ〉である。
 「真実性」から「依他性」を見る視点。
 たとえば、一本の竹の節だけを、あるいは腹だけをもってくることは不可能です。分離はできない。しかし、節と腹は区別はできます。「分離はできないが区別はできる。」「分離はできない」とは、本来的にひとつのものであるからです。このひとつのものであることを見る智慧が無分別智です。しかし「区別はできる」とは、互いに関係し合っているということであるが、これをみることのできる智慧が般若後得智です。
 釈尊は「諸行無常・諸法無我」の教えをとおして、実体化し、固定化してものをみることの誤りを明らかにしました。「諸行無常」とは、すべての現象変化し続けており、永遠に不変なものは存在しないということである。「諸法無我」とは、すべてのものは因縁によって生じたものであって実体がない。独立して成立するものはないので「我」は存在しないということです。
(続、参照:志慶真医師のHP「まなざし塾」に「我と汝」は詳しい。

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