4月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2568)

 対応語(我―それ・彼女・彼氏)で考えるのを対象化という、「対象化が迷いの大元だ」と言われても、日本の戦後の現代教育(なかでも合理的な思考の医学教育を受けてきた者には、納得がいかないでしょう。
 当院の心療内科を受診していた患者さんが、最近、車を運転しないようにしたので一か所で済むようにということで、内科の私を受診するようになって、いろいろと対話をすることのできる人がいます。80歳前後で、最近がんという診断を受けているという。私は高血圧などの生活習慣病の治療を担当しているですが、一見、お元気で、仏教の関心を持っているというのでいろいろ仏教絡みの話をして、私の講演録など読んでもらっています。
 先日、その患者さんが収集した仏教の知識や読んで本のリストを見せてくれました。宇佐市の図書館に行っていろいろな情報を見ていると言われるのです。「自分の家は曹洞宗で仏教の情報を集めて、何かすがるものを見つけたいという気持ちがある」と言われるのです。多くの現代人は仏教の学びをするというと、まず仏教に関しての知識・情報を増やして、一番信頼ができ、悩みを解決できる宗教はないかと情報を検討・判断するように思われます。
 宗教を対象化して情報を集めて宗教の良し悪しを判断しようとしていることに潜む「対象化」の思考に問題があることに気づくのが難しいのです。それに加えて、この人で問題は宗教(仏教)を、「なにかすがるもの」、「何かしっかりとしたものにすがりたい気持ちがある」、そういうものを宗教と考えている問題があります。日頃眼にする宗教絡みの情報と、学校教育で学んだ社会・歴史関係の情報から宗教(仏教)のイメージを作って、宗教(仏教)とはこんなものだという理解したつもりになっているのです。私自身の経験をかえり見ますと大学5年の頃までは、仏教のイメージはもっていたがその内容はほとんど間違いか偏見であった、ということです。そして仏教を学ぼうとしてもその方向性は、内容が分からない状態で、始めるでしょうから、何を学び、どの方向に進んで行ったら良いか分からないのでしょう。
 具体的に宗教に関わる学者、宗教者の人格性に触れることが大事に思われます。見本になるような人間性・人格性を持っている人(宗教者)に接点を持つことが大きな影響を及ぼすように思われます。私の場合は、九大の文学部に哲学・宗教学を立ち上げた干潟 龍祥(ひかた りゅうしょう、1892-1991年)と言う温厚な人格者が仏教青年会の理事長をされて指導されていました。さらに化学を専門にされている宗教者に出遇ったのでした。化学を専攻する人がどうして仏教の学びをされるのか?、ということでした。(師は広島大学を卒業後、たまたま浄土真宗の仏教者に出遇い、その後広島で被爆され、被爆者の救援活動をされて、昭和24年福岡に戻り、学芸大学が四か所に分かれていたものを福岡教育大として赤間に統合することに尽力されたと聞いています。)
 対象化する思考について考えてみます。私の自我意識が育つまでは、幼い子供の時は、もともと無邪気で無分別の我がその存在の中心になっていたのです。成長するにしたがい分別心が育ってきます。そして無分別が分別我の世界とって代ってしまうのです。ですから無分別心の本当の我はもともと私達の中にあるものなのです。仏教ではその我のことを「本来の我」(無数の因縁和合してできた我)と言います。禅宗の公案では「お前の面目を現わせ」、「父母未生以前の本来の面目(お前の両親が生まれる前の、お前の本来の面目とは何だ?)」と言うことで示されていることに深く関係しています。
 仏教では悟りの内容として縁起の法があります。私という存在は無数の因や縁が和合して、存在あらしめられている、そして一刹那ごとに生滅を繰り返して存在している。固定した「我」はない「無我」であると教えてくれます。私の存在様式は無数の因縁の和合で在る(無我)、ということです。固定された「我」はない(無我)これを言葉で言うと「本来の我」といい無常で変化し続ける存在だということになります。
 因縁和合して存在する「本来の我(無分別智で受け止める存在)」は今、ここに存在しており、過去も存在していた、将来も存在し続けるであろう。そういう存在の在り方が、仏教が教える、我々の存在様式なのです。そのような在り方の上に4−5歳頃から自我意識が誕生して、「私」、「私」と存在を主張し始めた存在が今の私達の在り様を示しているのです。自我意識の「我」は分別思考をするように育てられ、成長します。そして普通は死ぬまで継続されます。
 自己中心的に分別思考する「分別我」は「本来の我」(無我)を乗っ取って、自己を大きく主張するようになります。誰からも教えてもらったわけではないが、幸せを目指して生き始めます。幸せのためのプラス要因、〇(まる)要因を集めるようになるのです。幸せにとって価値あるものを集めて幸せになろうとしますから、想定外のマイナス要因や、×(バツ)要因が迫ってくると、結果として私を苦しめる、悩ますということになります。マイナス要因、×要因は困ったものであり、意味や価値を見出せないのが分別思考です。
 仏教で「無我」というのは、存在しない間違った「我」を存在しないと知ることなのです。それを裏から言ったら本当にある自己(無常で無我の真の我)を知ることです。ですから、これまで「あると思っていた自己は実は無い」のだということを知るのを無我と言うのです。否定される我は間違った分別我です。真の我(無我)は因縁和合して、私という生滅する存在、現象(存在するのは今、ここだけの無常)として存在し続けると思われるのです。
 無我にならなければとか、無我になるように努めるという行の問題ではないのです、無我とはというのは認識の問題です。存在しないものをなくすということはできません。存在しないものを存在しないと知ることを無我と言うのです。
 分別我は執着された相対分別の価値によって成り立っています。分別我はプラス価値のみに意味を見出し、マイナス価値に意味を見出すことはできないのです。人間にとって、苦の原因になるのは、相対(二元)分別そのものではなく、相対分別によって作られる固定価値への私達の執着なのです。相対分別(あるいは、対象知)は、文化、科学、技術等を産み出した大切なものです。そのように、相対分別は便利な面が多くありますが、人間の魂を救済することはできないのです。
 相対分別思考は人間を物化、道具化してしまう危険をもっています。この思考は量的な思考に強みを発揮しますが、質的な思考を非常に苦手にしています。質的な評価と言うのは内面的で主観的であり、客観的な尺度では測ることができないからです。
 幸福度を尊重するという仏教国ブータンに滞在して生活を体験した人が当地の人々に接して感じたことの報告には、量ではなく質への配慮(心の余裕・平安、個人の役割の尊重、人々の親交、人生の充実度、精神的成長・成熟、他人への配慮、周囲との関係性尊重・配慮。和を保つ周囲との関係性。人生の意味)を実感したと報告されています。
 一旦分別思考で量的思考に慣れ、経済活動、能率・効率など尺度の中での生活に慣れたものがそれを止めるというわけにはいかないでしょう(末法ということか!?)、人間性を回復する道を教えるのが浄土教なのでしょう。

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