5月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2568)

 ある僧侶のお話を引用して捕捉しながら紹介します。「あふれる生命(いのち)の今日を生きよう」という題目で書かれていました。
 インドの天親(世親とも訳されている)菩薩の書かれた論、浄土論という書物に 「遇(もうお)うて空しく過ぐる者無し 能く速かに満足す」という一節があります。論とは菩薩が書かれたお経の「味わい」や「解説」と言う意味があります。「あう」には会う、合う、逢う、遇うなどの漢字がありますが、「遇う」はめったに遇える可能性の低い事象にたまたま運よく出遇った、という意味あいで「遇」という漢字が使われます。
 「遇(もうお)うて空しく過ぐる者無し 能く速かに満足す」の心は、仏の心(智慧)に触れた者は人生を虚しく過ぎるということはありません、仏の智慧(無分別智)を受けとめることができると知足の世界(存在の満足)に導かれるでしょう、と言う意味の表現です。
 仏教では、人生は財産や地位や健康を求めるだけでは決して幸せに行きつくとは言えない。その生き方は必ず行き詰まる、と言うのです。そこに気付かない限り、どんなに財や地位や健康に恵まれてもそれは「幸福の材料」で、「材料」をいくら集めても幸福にはなれません。必ずその生き方は行き詰まります。
 逆に本当にそこに気付いた時、財や地位や健康に恵まれようとそうでなかろうと、争いや苦しみの中にあろうと、人生はどこからでも見直して生きて行くことが出来ます。それが大乗(仏教)の究極としての浄土真宗(お釈迦さんから高僧方を通して伝えられ、日本では法然・親鸞の明らかにした仏法)です。
 身(精神的疾患を含む)の病、心の病 病には大きく身(精神的疾患を含む)の病と心の病とありますが、身の病は、例えば心臓に問題があるとすると、まず症状、病歴を聞き、患者の症状・内容を把握しその上、種々の検査を行い、総合的に判断して診断となり、治療につながってゆきます(精神科的疾患と心の病は重なる領域もありますが今回は触れません)。
 精神的に病んでいても、いなくても心の苦しみ・悩み・不安(心の病)は別の次元で発生してきます。心の病はその原因がそこにあったと深く頷いた時点で、治療は大方完了なんです。ですから心に深く頷いたままが、冒頭の文に示される「能く速かに満足す」という、「浄土論」の通りに心の転換に導かれるのです。仏教が関わるのは心の孤独、虚しさ、人生の不全感、罪悪感に関係する領域と考えます。
 日常生活で行き詰まっていた私の心の問題が仏法の智慧で転換されるのを「回心」と言います。行き詰まっていた私が、自我を超えた生命(いのち)が生き方の転換として働く、超えらない問題に日夜呻吟し、心を悩ませている日常生活で、出口の無い悩みが仏法に触れることによって考えられないような道が開かれる。
 それが回心です。回心の体験を通して誰もが「人生に方向が示された」と仰る。
 その明るさや輝きの中に、知性や理性の判断を超える力が働いていることを思うのです。
人生のすがた (「浄土論註」、曇鸞による浄土論の注釈書、原文)
 朝には袞寵(こんちょう、天子の恩寵)に預かって夕には斧鉞(ふえつ、処刑)に惶(おのの)く。或は幼くして蓬黎(ほうれい、草の寝床)に捨てられ、長じては方丈に列(つら)ぬ(一丈四方に並べられたご馳走に預かる富者)。或は笳(こ)を鳴らして出ることを導き(華やかに門出し)、歴経(りゃくけい、あちこちを経巡って得ること無く)して還(かえ)りを催(うなが)す(虚しく帰って来る)。
(意訳文):朝には天子の恩寵をこうむって喜んだ者が、夕には重罪の刑に惶(おのの)き、あるいは幼いとき草の中へ放り出されて育てられたものが、長じては一丈四方の料理を食卓に並べるという富者ぶりであったり、葦(あし)笛を鳴らして勇んで門出した者が、各地を経巡って得ることなくやむなく戻って来なければならない。
 現実人生のすがたを示したものがこの「浄土論註」の文で、これを読むと、人生の無常が示されていると、誰もがそう受け取ります。その受け取り方に間違いはありません。しかしながら、ただこの世の無常苦のすがたを列挙するなら「袞寵(こんちょう、天子の恩寵)に預かって(幸)、「斧鉞(ふえつ、処刑)におののく(不幸)、「笳(こ)を鳴らして出ることを導き(華やかに門出し(幸)、「還りを催す(虚しく帰って来る(不幸)というように、幸から不幸への方向だけで良いはずですが、この文では「蓬黎(ほうれい、草の寝床)に捨てられ(不幸)、「方丈に列(つら)ぬ(一丈四方に並べられたご馳走に預かる富者)」(幸)と、逆に不幸から幸のすがたで無常が示されています。
 即ち、人生無常のすがたを「幸⇒不幸」だけでは無く、「不幸⇒幸」も同じ無常としています。経文は読む人の心を写すと言われます。この文、「蓬黎(ほうれい、草の寝床)に捨てられ、方丈に列ぬ(一丈四方に並べられたご馳走に預かる富者とを、読者はどのように読まれますか。「幸から不幸も、不幸から幸も同じ無常」と、ここに示された現実人生のすがたをそのように読み取れたら文の示す通りですが、多くの人はそうでは無く「不幸から幸に転ずるのは無常では無い」と見るのではありませんか。
 幸から不幸へ、不幸から幸ヘ
 この文は無常苦の流転のすがたを示しているわけですから、当然ながら「袞寵に預かって、斧鉞におののく(幸⇒不幸)も、「蓬黎に捨てられ、方丈に列す(不幸⇒幸)も、「筋を鳴らして出ることを導き、還りを催す(幸⇒不幸)も、いずれも無常をひとくくりにした苦の実相です。しかしながら「蓬黎に捨てられ、方丈に列ぬ」という、不幸から幸への転換を無常苦と読み取ることは難しい。誰もがこの文を「どん底から成功した、いわゆる成功物語と読んでしまいます。そう受け取るところに「財や地位、それが即幸せ」という、万人に共通した、人間の底知れない深い闇がある。そう読んではいけません。それでは国も位も財も全てを捨てられた釈尊(お釈迦様)のご出家は全く意味の無いものになります。幸から不幸も、不幸から幸も、いずれも幸福の材料を集めるだけの、迷いの真っ只中なんです。
 「論註解」には「蓬黎に捨てられ、方丈に列ぬ」の文を特に注意して、この文を「夢中の患(うれい)、遂に幻楽を生ず病(夢の中で幻の楽しみに浸っている)」と注解しています。私達の日常は「夢中の患(うれいの迷いの中)」で、その患いを幻楽と気付くことも、思い返すことも無いのです。それが現実人生ではありませんか。「方丈に列ぬ(一丈四方に並べられたご馳走に預かる富者)」とは無常の只中、天上界(有頂天)に居ることです。その天上界を幸せの理想のかたちとして生きているのが私達ですから、気付いてみれば「幻楽(幻の楽しみ)」は私達の日常そのものを指しています。
 無常苦にもがきながら生きる私達。法話を聞きましょう。無常を恐れることはありません。「たまたま行信(仏法の生命(いのち))を得ば、遠く宿縁(今までの私の全ての過去)を慶べ」(「教行信証」)。生きる根拠を失ったままあくせくと生きている私達が、「夢中の患」であることにしみじみと頷き、心を見直して新しい明日を生きて行く、聞法はその機会であります。
 「やり直しのきかぬ人生であるが見直すことはできる ?金子大榮?」

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