6月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2568)

 「はかる」とは、ものの量を認識することです。この言葉に反復・継続の助動詞「ふ」が接続すると「はからう(ふ)」になり、名詞化すると「はからい(ひ)」になります。その事が繰り返されると認識や判断にとどまらず「はからい」という分別に転じます。我々の普通の生活は「はからいなし」には生活できません。
 休みの日、運転手と運び役で妻の買い物についていきました。妻の品物の品定め、想定した料理に叶うように、まさに「はからい」そのものです。野菜の所では立派な見かけも良いもの値段を見て、家庭菜園で野菜つくりの私の手間暇を考えると買った方がずーと楽だなあ、と「はからい」の計算的思考にどっぷりとつかっている自分を自覚します。
 世界中の国々が政治体制の如何を問わず、お金による経済活動に飲み込まれています。世間での知恵は「物の表面的な価値を計算する見方」と言われています。そしてはからいで分別して、その価値に無意識的に捉われ、価値を感じるものを追い求めます(餓鬼の姿)。今自分にないもの、欲しいものを入手して思いを満足させようと、すなわち管理支配しようとしています。この発想が苦しみ悩みの元凶ですが私達の日常生活は分別なしでは成立しません。
 仏の智慧は「物の背後に宿されている意味を感得する見方」と言われています。物の背後に宿されているとは、今、私にないものを追い求めるのではなく、既に与えられているものを再発見するのです。はからいなしとは価値の計算をしないのです。仏の智慧は無分別智というように分別しないであるがままをあるがままに受けとめるのです。そして宿されている意味を感得する、種々の事象の意味(背後に宿されている意味)を身柄全体で二人称的に十分に受けとめるのです。この発想は我が人生(日常生活ではない)における意味を思考して管理支配しない(はからわない)のです。
 仏法をいただく者の生活、仏法を大事だと思う者は自然とこの世のはからい(分別)の日常生活と仏の智慧(無分別智)のはたらきを感得する生活、いわば二重国籍(娑婆と浄土)の生活をすることになると思われます。1日24時間のほとんどは世間生活(娑婆)をしています。
 仏と相対する時は、仏の智慧の世界を憶念することになります。それは仏前で勤行する時、会座で法話や講義を聞く時、仏書を読むとき、念仏する時(念仏申さんと思い立つ心のおこる時)です。決して長い時間ではありません、瞬間的な時間かも知れません。仏教の譬えに「千年の暗室も、一瞬の光で闇が破れる」があります。量的な思考の世界が質的な思考で質的な転換が起こるのです。
 妙念寺(佐賀市愛敬町住職 藤本 誠)のHPに「今お帰りになりました」があります。(一部改変)
 阿弥陀さまは、この私といつも一緒にいらっしゃると、聞かせいただいても、なかなかそれがはっきりと分かりません。ところが、浅原才一という妙好人の方は、こんなことをおっしゃっています。自分で質問し自分で答える、自問自答の記録が残されていますが、
「才一や、阿弥陀さまは、今どこにいらっしゃるのか」自分で自分に質問し、
「今、ちょっとお留守でございます。ナマンダブ、ナンマンダブ」、「あっ、阿弥陀さんは、今お帰りになりました。ナンマンダブ」 という、有り難い言葉が記録されています。
 南無(无)阿弥陀仏が口に出ないとき、聞こえない時には、阿弥陀さまはお留守なのか、どこにいらっしゃるのかわかりません。阿弥陀さまの働きを忘れて、煩悩が背後に潜む分別思考で、あれが欲しいこれが欲しい、と未来へ夢を追い求めています。
 悲しい悔しい辛いと、愚痴一杯の私達、それは、阿弥陀さまがお留守だからでしょう。でも南无阿弥陀仏と口に出たときに、「あっ、いまお帰りになりました。ナンマンダブツ」なのです。
 仏さまの所在というものを、浅原才一さんは、明らかに実証しておられます。
 仏さまは、西方極楽浄土にじっとして居られるのじゃない。南无阿弥陀仏という、聞こえる仏さまとなって、私と今ここにいらっしゃる。南无阿弥陀仏が聞こえるところ、私のいるところ、行くところ、私と仏と片時も離れることはない、切れるところがない。しかし、私が南无阿弥陀仏を忘れているとき、阿弥陀と一緒であることを忘れてしまって、欲にまみれた。煩悩にまみれた私の姿が現れてくるのです。
 阿弥陀さまは目で見る仏様でも、触ることが出来る仏さまでもありません。まして匂いの仏さまでもありません。頭でイメージする仏さまでもありません。南无阿弥陀仏の声の仏さまとなって、この私といっしょに、ここにいていただくのです。南无阿弥陀仏の仏さまは、お念仏の人とともに、いつもいっしょに居て、励まし導いてくださるのです。
 どこにいても、いつも一緒に働きかけてくださる阿弥陀さまとともに、力いっぱいの人生を味わわさせていただきたいものです。お念仏が聞こえるところに阿弥陀さまはいらっしゃるのです。この私とここに、一緒にいらっしゃるのです。
 南无阿弥陀仏、南无阿弥陀仏。(以上)
 教行信証、行巻、には、念仏の受けとめを、「また云わく(元照(げんじょう)律師、1048-1116)、いわんや我が弥陀は名をもって物を接したまう。ここをもって耳に聞き口に誦するに、無辺の聖徳、識心に攬入す。永く仏種となりて、頓に億劫の重罪を除き、無上菩提を獲証す。信に知りぬ、少善根にあらず、これ多功徳なり、と。已上(東186西180島12-33)」 と書かれています。
 現代語版では、「まして、阿弥陀仏の名号をもって衆生を摂め取られるのである、そこで、この名号を耳に聞き、口に称えると、限りない尊い功徳が心に入りこみ、長く成仏の因となって、たちまちはかり知れない長い間つくり続けてきた重い罪が除かれ、この上ない仏のさとりを得ることができる。まことにこの名号はわずかな功徳ではなく、多くの功徳をそなえていることが知られるのである。」(『教行信証(現代語版)』97頁)
 このように、「南無阿弥陀仏」という名号が生きとし生けるもの(衆生)のこころをとらえて離さない、それで、み名を聞き口に称えると、如来の尊い徳が、はたらきが私どものこころに入り込んでくださる、と言われています。そのことを「信心を頂く」ということもできます。信心とは「仏願の生起本末」を聞いて疑いの晴れた心であり、その「仏願の生起本末」とは、自らの力では迷いの世界を出離できない凡夫のすがたを法蔵菩薩がご覧になって、凡夫をさとりに至らせるために五劫のあいだ思惟して不可思議の本願を起こし(生起)、兆載永劫の行をもって「南無阿弥陀仏」という仏と成られたこと(本末)をいいます。その仏語を私に対するはたらきとして実感できるとき、私をイキイキと生きることへと導く(回復させる)のです。

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