8月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2568)

 妙好人「源左」と山名直次
山名直次:日頃から仏法を聞かしてもらっていたが、病気が進み、床につくことがめっきり多くなっていた。死が目の前に近づいてきてから、念仏も少なくなり、なんだか仏のお慈悲が分からなくなった。死を前に心配になってきた。
娘のこのが「おじいさん、ちったあ、念仏となえなはれ」と勧めました。
直次は、「おらあ、腹にいらんだやあ」と言います。如来のご本願がなっとくできないから、お念仏も出ないようになった。そこで娘さん(同じ山根村の棚田この)に頼んで源左に来てもらってくれと源左を訪ねてもらった。
源左もすでに病床についていた。「おらも、えらあて、よう行かしてもらわんだがのう。会いたいというだけど、何の用だらあかいの」そこでこのが父親も病気になって、後生が気にかかるらしいので、念仏をとなえさせてもらえば気がはれるかと思ってすすめるのだが、少しもお念仏がでない。どうしたものでしょうかと相談にきました。すると源左は、「よしよし、称えられなければ、称えなくてもよいからのう。助かるに決めてもらっとるだけのう」このがそのままを直次に伝えると「はあ」というばかりあった。
源左:「よしよし、そんな状態で、称えられなければ、称えなくてもよいから。」「助かるに決めてもらっているんだからな」「称えられなきゃ、称えなくてもよいからな。」「助けていただくように決めていただいているのだから、心配せんと、おまかせしとけ」と言うとけと言った。それを聞いて、源左はそうは言うけれど、よく分からん、念仏しなければならんように思うが………、いそいそと念仏する気になれん。
山名:「源左はどうしておるか聞いてくれ。」
源左:「今更、くわしいことは知らんでもよいようだ、この源佐がしゃべらんでも、親様はお前を助けにかかっておられるだけ、断りがきかないようにしてもらっているから、そのまま死んでいきさえすれば、親のところだから、こちらは持ち前の死んでいきさえすればよいからのう。源左もその通りだからと言っておいてくれ。」
詳しいことは何にも私がしゃべる必要はない、親様がお前を助けにかかっているのだから、もう断りがきかんようになっているのだから、お前はそのまま死んでいきさえすればよい。死んでいけば、そこは親様のところだ。死んでいけばそこが親様のところだから。私はただ死んでいきさえすればよいのだ。こちらはもちまえの死んでいきさえすればよいからな。
山名は、それを聞いても、すぐには分からず、一晩考えた。「念仏、称えんでもいいと言ったが、聞かしてもらえば、称えなければ気が済まんで、聞かしてもろうてみれば、称えなければ気がすまん、なんてなんて、ようこそようこそ」と言うて、喜んだ。
昭和5年2月20日源左は死んだ。直次はそれを聞いて、「浄土に行くのに抜かれた」、と言って次ぎの日に亡くなられた。
親鸞における死を生きる道(信楽峻麿)
親鸞は真実信心を明かすについて、「信心の智慧」とか「智慧の信心」といい、また「信ずる心のいでくるは、智慧のおこると知るべし」と語って、信心とは智慧をうることであると明かしている。かくして、親鸞は真実信心の人は、その信心を開発する時に、いまだこの肉体を持ったままにして、よく迷妄の生命を終わって、真実、智慧(さとり)の世界に趣入(しゅにゅう:趣は足早にいく、さっさとある方向にいく、おもむく)することとなるというわけです。
すなわち、親鸞は、真実信心の人は、この現身、現生において、すでに浄土の往生することができると言い、そのような現世の往生を、「即得往生」「必得往生」「摂得往生」と語っている。そのような往生は、なお肉体を持ったままの不体失の往生であって、命終の後、この肉体を棄てることによる体失の往生もあるとし、それを「難思議往生」と語っている。すなわち、親鸞は、その往生について、現生の往生と、来世、死後の往生、不体失の往生と、体失の往生という、二種の往生を語るわけであるが、その基本は現生の往生にあるわけで、ここにして信心の利益として、今生において既に確かな浄土往生をうればこそ、よく来世、死後の往生が成立してくることとなるのである。
現在の私(信楽)の信心の所でいえば、今ここで、すでに真実の生命に触れ、永遠に触れ、それをたまわり、それとともに生きているかぎり、もうそれでよい。あとは死後があろうと、なかろうと、そんなことはどうでもよいという思いである。(引用終)
「源左」は大正6年、76歳の時4度目の県知事表彰を受けた。人々がお祝いの挨拶をすると、「源左はのう、行き届かんで、もっとしっかりせよとのご意見におうてのう。褒美ではない、ご催促だけ。」と応えたという。表彰を受けるときに、「生身の人間だからなにをするか分からない。」 75才を過ぎているからもう大丈夫でしょう。
「いやいや生身だから何が出て来るか分からん。」と言われたという。
真っ暗な部屋で、中で動くと木の角にぶっつかたり、頭をぶっつけたり、邪魔なもの(煩悩)が多くて動きが取れない。そこで何か分からないが邪魔な物をすみにやったり、どけたりした。かなりの自由度を得たが、狭い範囲のことである。周りの様子が一部しか分からないから、ちょっと動けば何が出て来るか分からない(無明)、なかなか油断できない。
怪我をしないように閑かにしているしかない。
どうするか?
部屋に光(智慧、無量光)を付けるのである。そこにある物の意味が分かってきたら、それらの物(煩悩)は邪魔にならない。意味が分かれば(光に照らし出されれば、転成の智慧:除く、無くすべきものではなく、意味のあることと知らされる)、机や椅子を利用にして、それらはかえって役に立つのである。素晴らしい働きをする、徳になる。煩悩はあり続けるが、生死に迷い続けることはない。
生死の迷いは、智慧があればそのままで涅槃となる。煩悩はそのまま尊いものになる(転悪成善・徳)。それが涅槃、大乗仏教という世界である。煩悩のままに悟りの世界を生きる(往生浄土の歩み)。次元のちがう、二つの世界を生きることが出来るのが南無阿弥陀仏の心に触れる念仏生活である。

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