9月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2568)

 親鸞に大きな影響を与えた高僧に曇鸞大師がいます。仏教界で最も哲学者であったと高く評価されている人です。その著書に「浄土論註」があります。世親菩薩の「浄土論」を注釈されたものです。その中に「凡心は知有らば即ち知ならざる所有り。聖心は無知なるが故に知らざる所無し。無知にして知なり。知即ち無知なり」という言葉があります。
上記の言葉に仏教特有の言葉使いがあるので、解説します。「凡心」は普通の常識を持て生活する人の心・意識という意味です。「知」は普通の分別して知る、という意味と、一般の知るという意味です。「聖心」は仏の智慧(無分別智)の意識・心です、仏智を身に着けている存在。「無知」は普通は常識がないという「無知」の使い方と、分別知を超えている「無知」(分別で知らなければならないものが無い)、すなわち無分別智という使い方があります。
上記の文章を現代語で理解できるように、少し認知症傾向のある田畑が訳してみます。
「仏教に縁の少ない一般の人は、物事の知識を知っている、というときは、知っていることを誇る傾向にあるが、その先(知っている部分を超えた部分)は知らない、知らない部分があるということを意識しません。仏の智慧(無分別智)に触れてその心に頷いたことのある人は無分別智を少しでも知っているから、分別知では知ることのできない領域(無分別の世界の広さ・深さ)のあることを感得するので、そのため日常生活において多くを知っていても必然的に謙虚になり、分別知を含めて仏の智慧の世界も網羅していることになるので『知らざる所無し』という表現になっているのです。無分別智によって分別知の長所・短所を俯瞰的に見ることで、物事のあるがままをあるままに全体的に見通すことになります。物事のあるがままを全体的・俯瞰的に、そしてその背後に宿されている世界を含めて、自分と一体的に知るには無分別智が必須です」、という意味になるでしょうか。
かって遺伝子がDNA,RNA として解明されたとき、最初の頃は遺伝子の15%ぐらいのはたらきが分かり、他の部分は人間の進化の過程で必要であった部分が残されているのだろう、などといわれて意味・働きが不明でした。しかし、その後の研究で不明であった部分の遺伝子にも大切ははたらきがあることが分かってきた時(約20数年前、現在の状況は知りません)、NHKのニュースで放送される時、キャスター(総合司会者)と専門家の対話があって、キャスターが解明された部分が15%から40-50%に増えたということは「人間の遺伝子の働きの解明がかなり進んだということですね」との発言に専門家は「今まで働き、意味の分からない部分の働きが見えてきたということは、その先の未解明の部分が広がったということです」と発言されたことが私には印象深く記憶に残っています。
素人は遺伝子の15%から約40%が分かってきた、かなり進んだという思いでしょうが、その領域の研究の当事者には未知なる最前線(解明されたその先に見えてきた未知なる領域、研究して解明しなけれならない部分)が増えたという実感なのでしょう。
このことを考える時、健康の定義にスピリチュアル(spiritual)を入れることがWHOの理事会で決定された時、当時の厚生省が有識者を集めてこの課題の対応を検討した審議会記録が公開されました。その中で高名な医学者が「私は宗教に関心がないので、健康の定義にそんなことが加わるということは迷惑だ」と発言されていました。
そのことで私がよく引用する文章を紹介します。「スッタニパータ さわやかに、生きる、死ぬ」(NHK出版2007年)、宗教学者羽矢辰夫は科学的合理主義の医学・医療の世界を意識して、「私の人生は一回だけで、死んだら終わり。だから、生きているうちに、楽しいこと、心地よいことをするしかない。私だけが幸せになることが、人生の目的である」。この思考は、人によって程度の差はあれ、虚無主義と快楽主義と個人主義が複雑に絡みあいながら形成されているように思われます。生きることにほとんど意味を見出せないけれど、生きていかざるを得ないので、その基準を、最も生きている実感を得られやすい、個人の快楽に求めようというわけです。
とはいえ、いつも楽しく過ごしていたい、それが幸せというものだ、というのであれば、人生の最後は必然的に不幸せです。また、幸せになろうとして、幸せを未来に求めると言うのであれば、現在はつねに不幸せな状態だということになります。今が幸せであれば幸せを求めることはないからです。幸せを求めれば求めるほど不幸せになる、という悪循環に陥ります。
この人生観の中には、自分の為なら何でもする、他人のことなどかまっていられない、という極端なエゴイズムから、自分が自分自身を大切に思うように、他者も自分自身のことは大切に思っている、だから、お互い仲良くしなくてはいけない、というヒューマニズムまで含まれています。現状では、とりあえず人に迷惑をかけなければという最低の倫理観が、おおよその基準になっているのではないでしょうか(これさえも壊れかけているかも知れません)。
それでも、けっきょくは「死んだら終わり」です。唯物論的な近代科学の見方が、追い討ちをかけます。というより、近代科学が提示するコスモロジー(cosmology、宇宙の起源、構造、発展についての神話的、哲学的、あるいは自然科学的な理論の総称。宇宙論(観)、世界観)を私たちが受け入れ信仰している結果、といったほうが正しいかもしれません。私たちの世界はすべて物質に還元でき、生命を構成する物質が集積したときに「生」があり、それが分散したときに「死」がある。ただそれだけのことです。「生きている」ことに意味はありません。「生きている」こと自体に意味がないのに、その質(Q.O.L、quality of life)を問う意味はありません。質を問う根拠はどこにもないからです。
自分がまったく独りで、宇宙の真っただ中に放り出されているような孤独感、どこにも手がかりも足がかりもなく、何をしても同じであるような無力感、そして結局は死んだら終わりという虚無感、日常生活では何の問題もないけれど、なぜかこころが満たされていないような不全感、これらは一種の「病い」といえます。なぜなら、いずれの場合も、生命がいきいきと生きていないからです。(引用終わり)
尊敬して学ぶ所の多い仏教者、平野修師は講義の中で、「我々の知は、非常に大きな暗闇を残していて、ちょうど光の当たった部分は、必ずその背景に影を持つことと同じです。必ず影を残し、覆われたものを残すというのが我々の心です。したがって、自分のことについては自分が、また、あの人のことは私が一番よく知っていると言いますけれども、非常に闇を残したところで知るわけです。それはそのままで傲慢なことになります。そういうものの知り方しかできない我々の心を、「凡心」とおっしゃったわけです。その意味では、我々は「知ならざる所有り」とうことにも気がつかないで生きているわけです。したがって、私どもは言葉と心を持っているだけで、すでに大きな問題を抱えているということになります。
哲学の父とも呼ばれるソクラテスは「無知の知」という考え方を基本としました。文字通りの意味は「無知であることを知っていること」が重要であるということです。要するに「自分がいかに分かっていないかを自覚せよ」ということです。
我々は知らないことを「ない」ことにしてしまいます。そうするといわゆる無知なのに知っている、分かっている、という傾向になって「井の中の蛙、大海を知らず」になります。自分の理知に自信があり、世間を見て大多数が私と同じ発想である、それ以外考えられない、と。

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