10月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2568)

 仏法を聞くご縁のいろいろ:
#1.夏の暁天講座の抄録、石川信暁(岡崎教区・正覚寺)2024./9.「南御堂」より(一部省略・改変)
問いに囚われて:私は小学校の頃、仲の良い友達がいました。家は酪農家だったのですが、ある日ご両親が事故で亡くなり、友人は遠い親戚に引き取られ、私の目の前から消えていったのです。そして活気のあった酪農場はあっという間に廃墟に変わりました。同じ頃、近所に私と年齢の近い男の子が小児ガンになって、あれよあれよという間に死んでいったのです。その時に「ああ、今生きている者もこうやって死んで消えていくんやなあ。この僕もいつかは死んで消えていかなならんのや。嫌だな、怖いな」という思いを強烈に抱きました。
中学生になるとそんな思いが「いつか死んで必ず消えてしまう命を今生きることに何の意味があるのか」という問いになり、勉強もせず夜から朝まで哲学書やら思想書やら色んな本を読んで、考え続ける日々になりました。
周囲の勧めで高校に進学したのですが、「先ほどの問いがはっきりせんかったら、生きることが始まらないじゃないか」と本気で思って、親に無断で退学しました。必死で答えを探しましたが、なかなか解けません。だからだんだん私はノイローゼ(神経症)みたいになっていきました。
22歳の時、たまたま知り合ったお寺の娘さんに、問いに囚われ行き詰っていることを話すと、東京で児玉暁洋という先生が仏法の話をするから聞きに行け勧めてくれました。それで話を聞きに行ったのですが、児玉先生の話の内容はさっぱり分かりませんでした。私は仏教と全く縁のない家に生まれ、法話なんか聞いたことがありませんでしたから。だけど児玉先生のお姿を見ていると、「ああ、この人は私と同じ問いに囚われてきた人だな、しかもそれを根本から解いて、その世界を今朗々とお話ししてくださっているんだ」という直感があったのです。
その後、私は児玉先生の控室に押しかけていって、「どうしたら先生みたいに生きられるようになるんですか」と質問をしました。すると児玉先生は「君も念仏申す者に成ればいいんや」と。それから私は浄土真宗や仏教の本を次々と買い求め読んでいったのです。とにかく私の囚われてきたその問いを解くのは念仏やと教えられたわけですから。
阿弥陀様の智慧:そういう本を読み、学べば学ぶほど本当に色々とよくわかるのです。しかし、分かれば分かるほど、自分が生きることが虚しいというこの最初の感覚は、何も変わっていないじゃないかという思いが、壁のように立ちはだかってきたのですね。そして、「何が念仏や、何が真宗や、何が仏教や、こんなものを捨ててやる」という思いに至り、買いだめていた百冊近い本を、ある晩捨てようとしたのです。ところが、なぜそんなことが起こったのか分かりませんが、体の奥底から涙があふれ出してきました。そして世界中が輝き出したのです。
その瞬間まで、「この俺が」「この私」と言っている、これ自我意識とか言われますけども、私にとってはもう全世界、全宇宙だったのです。この私を満たす意味に出会いたい、そのために全てを投げ捨ててガムシャラにやってきた訳です。何より大切なものとしてきた「私」と言っているものが、みるみる小さくなっていき、あってもなくてもいいもんだなとフッと見える瞬間が訪れたということです。
まあ、伝統的な言い方をするなら、そのように見える阿弥陀様の智慧といただいたと。
そして、その瞬間ですね、もう一つのことに気づいたのです。私はこういう問いに囚われて、学校まで飛び出して、鬼のようになって苦しんでいた。七転八倒しているそんな私をですね、一緒に暮らしていた両親も姉も弟もハラハラしながら、心配しながら見守ってくださっていたのです。それが全然見えてなかった。とにかく自分を満たすものに出会いたいという一心になっていた。だから家族がまるで自分にとって何の意味もない存在になっていた。そんな浅ましい自分だった、ということにその瞬間気づいて、「すまなかった」という思いとともに涙がボロボロ出てきました。
これが私の問いが解けた瞬間なのです。それは、そういう問いに対してこういう答えが来て解けたということではないのです。問いに囚われてきた、「自分」とか「私」と言ってるものが、あってもなくてもいい、むしろない方がいいぐらいのものだなと目覚めることによって、この問いへの囚われから解放されたということです。

#2.志慶真文雄医師  2014年11月2日宗教の時間(テレビ)放送)
志慶眞:そうですね忘れもしない五十数年前、実は場所も今住んでいるこの場所なんです。小さいころから星空を見るのが好きで、十歳の時に夏の夜空を眺めていたんです。ここは田舎で満天の星でした。その時にふと「いつかこの星空を見れない時がくる。自分はいつかこの地上から消えてしまう」という思いが込み上げてきて、悲しさというのか虚しさというか立っておれないような衝撃を受けたんですね。
その頃、(中略)毎日遊び呆(ほう)けていましたが、その日を境に生きていくのが辛くなりました。「誰か助けてくれ!」「 どうしたらいいの! 」そういう心の叫びがそれ以来消えることはなく、そしてそれに答えられるような術(すべ)もなくて、結局小学校、中学校、高校、大学と、今に至るまで「生死の問題」が自分の一番の問題になったんですね。(中略)
金光:その時の追求の仕方というか、生死について先生はどういう形で近づいていかれたんですか?
志慶眞:(中略)大学に進学しても、人間は死ぬから虚しいんだとずっと思っていました。ところが大学一年か二年のある時「じゃあお前、百年でも千年でも一万年でも、あるいは永遠に死なない身体になったら生きて生けるか」とふとそういう問いが起こった。何のために生きているのかわからないんだったら、永遠に生きることは生き地獄が続くだけじゃないかと思えた時、それまで死ぬから虚しいと思っていたけど、今を生ききれないことが実は自分の大切な問題だと、死の問題を通して気づかされたんです。これは大切な気づきでしたが、気づいたから明日からは生きれるようになりますとは言えないわけで、あいかわらず虚しい毎日でした。
 どうせ死んでしまうし、しかもどう生きていったらいいのかもわからない人生だと思っていましたが、小さい時から、物のあることの不可思議さとか、宇宙の不可思議さには興味がありました。それで天文学者か物理学者になって、そういうものを探求して一生終われたらもうそれだけでいいと、特に大学に入学してから強く思うようになりました。(中略:愛媛大学工学部、その後広島大学大学院(素粒子の実験研究室)
金光:物質の一番基礎のところから勉強しようと思われたんですね。
志慶眞:この世の成り立ち、何でこの世の中があるのか、宇宙とは何か、人間とは何か、科学的に追求すれば根本的なことがわかると思っていたわけです。
 修士課程を終わって博士課程に進学しました。しかし物をいくら追求しても、どういう具合にという「how」はわかるけれども、何故そうなのという「why」は、いくら追及しても最終的には結論が出ないと思い至った時、また自分の生死の問題でつまずいてしまいました。それで結局大学院を中退しました。自分の青春のすべてをかけ、自分の人生はこの方向で行くんだと強く思っていましたが、それが挫折してしまってもうどうしていいかわからなくなりました。その時に、知人や医学部に行っている友人が心配して「志慶眞君、医学部をこれから受験したらどうか」と言ってくれました。(中略)大学時代に行き詰まってどうにもならないとやけっぱちになった時、初めて自分を待ち続けている祖母の姿が浮かんできて、このまま人生を投げ出してはいけない、もう一回やり直そうと思いました。(中略)
 祖母の元で生涯やれる仕事を身につけたいと思って、医学部進学にチャレンジすることにしました。しかし医学部進学は険しい道で合格するのに五年かかりました。
金光:どこでも医学部というのは難しいですからね。
志慶眞:ほんとに無茶なことで、どうなるかわからないような状況の中に飛び込んで、幸い五年経って広島大学医学部に合格しました。私は大学院博士課程に進学する時に結婚しました。家内は熊本出身で、高校生の頃から親鸞の教えを聞く機会があって、広島大学で細川巌(いわお)という先生が、「歎異抄の会」をやっているから行こうと誘ってくれたんですが、私は「今の葬式仏教で、自分のこの生死の問題が解決するとはとても思えないから行かない」と言って、七年ぐらい拒絶していました。素粒子の研究に行き詰まり、医学部進学をめざして勉強を始めましたが、仏教そのものには小学生の頃から関心があったので、受験勉強の合間に時間を見つけて原始仏典や禅宗関係の本を手当たり次第に読みました。年月を経て少しずつ自分の頑なな心が解けてきて、「もし医学部に通ったら、細川先生の話を聞きに行ってもいいよ」と家内と約束をしていました。
 たまたま合格発表があったその日に細川先生の「歎異抄の会」があり、その足で「歎異抄の会」に行きました。「歎異抄」そのものはよくわからなかったけれども、今までは「あれが悪い、これが悪い、あれを変えたらいい、これを変えたらいい」と、周囲のことを変えることで自分の生死の問題を解決しようとしてきましたが、歎異抄を聞いている時に聞こえてきたのは「そうやっているあなた自身が問題じゃないですか」という言葉でした。「あーそうか。自分自身が問題だったんだ」と気づかされました。それが、私が初めて親鸞の教えを聞くきっかけになったんです。

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