12月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2568)

 親鸞聖人の在世中、関東の門弟の方々が徒歩で京都まで疑問を解明すべく親鸞を訪ねて上京されています。弟子と親鸞の問答の状況が歎異抄第2条に残されています。念仏よりほかの道を問われるのであれば、として「南都北嶺にもゆゆしき学匠たち多く座せられて候なれば、かの人々にもあいたてまつりて、往生の要よくよく聞かるべきなり。」と答えています。
 当時日蓮が、他宗が仏の道から外れているとして折伏(しゃくぶく)するために唱えた【四箇格言】「念仏無間(むけん)・禅天魔・真言亡国・律国賊」の中に念仏したら無間地獄に落ちる、と言われている「念仏」への疑問を出されたと思われます。それに対して、「親鸞におきては、『ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべし』と、よき人の仰せを被りて信ずるほかに、別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土に生まるるたねにてやはんべるらん、また地獄に堕つる業にてやはんべるらん、総じてもって存知せざるなり。たとい法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄に堕ちたりとも、さらに後悔すべからず候。
 そのゆえは、自余の行を励みて仏になるべかりける身が、念仏を申して地獄にも堕ちて候わばこそ、すかされたてまつりて、という後悔も候わめ。いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。」「弥陀の誓願まことにおわしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。仏説弥陀の本願まことにおわしまさば、善導の御釈、虚言したまうべからず。善導の御釈まことならば、法然の仰せ、そらごとならんや。法然の仰せまことならば、親鸞が申す旨、またもってむなしかるべからず候か。」と答えられています。
 この場面での念仏の受けとめが私には長い間、十分にできていなかったのですが、最近、佐野明弘師の講義録を読んでその受けとめが少し進んだように思われます。その一部が以下です。
「”私”よりずっと根源的な私」佐野明弘(1958年生まれ、京都大学で哲学を学び、22歳で仏門に入る。6年あまり臨済宗僧侶として学ぶ。その後、和田稠師と出遇い、35歳で真宗僧侶に転ずる。)

 「念仏」が手段として利用される時、大いなる本願力回向のおはたらきは見失われてしまいます。
 六角堂を出て法然上人のもとに参じた親鸞聖人に大いなる転機が訪れ、「ただ念仏して弥陀にたすけらすべし」の一言に、念仏に出遇われます。お手紙にも「南無阿弥陀仏にあいまいらせんことこそありがたくめでたくそうろう」とあるように、念仏を利用するものではなく出遇うものであったのです。」
田畑の註、「南無阿弥陀仏」の念仏は救われるための呪文や手段・方法・道具に位置するものではないのです。仏の私への呼びかけ、呼び覚まし、仏の世界(浄土)への呼び戻しの言葉です。細川巌師は「汝、小さな分別の殻を出て、大きな仏の仏智(無分別智)の世界にいでよ」と説明されていました。法然上人はお弟子の、なぜ、念仏なのか? に対して、(1)仏意はかりがたし。仏は何故、南無阿弥陀仏を選択されたのか、仏の心は分かりません。(2)強(し)いて言うとするならば私達にとって易行である、(3)念仏には仏の光寿(智慧と慈悲)無量が込められている、と答えています。またキリスト教の言葉、ヨハネの福音書の言葉「はじめに言葉ありき、言葉は神と共にあり、言葉が神であった」がありますが、言葉を南無阿弥陀仏に神を仏に置き換えると、仏教の言葉(南無阿弥陀仏、方便法身)の受けとめにぴったりです。(註終わり)

 「出遇った念仏(果)のところに十方衆生にかけられた本願の歴史(因)が開く。また出遇った念仏のところに念仏申すべき身として、”私”は初めて自らを見出します。見出された自らのところに、無始以来の迷いの歴史がいのちの深さとして開く。これは従因向果ではなく従果向因の形です。」
田畑の註、南無阿弥陀仏の背後に宿されている、法蔵菩薩の兆載永劫のご苦労を憶念されます。頑固に迷い続ける私に、種々に辛抱強く働きかけ、仏の心を伝えんとするも……、あなたに覚りや信心を期待することは諦めました、あなたに影の如く寄り添い、あなたのいのちとなって身を棄てましょう。浄土から南無阿弥陀仏、方便法身として立ち上がって、あなたの信心、念仏となりましょう。その菩薩のはたらき続ける相(よき師、よき友、諸仏方)に触れて(時期熟して、出遇って)念仏する私に育てられたのでした。大峯顯師は、念仏する存在になることを、私が南無阿弥陀仏と成るのです、と表現されていました。(註終わり)

 「出遇いとは、”私”の求めたものでも願ったものでもありません。”私”にとってはたまたま(遇)の出来事です。しかし、出遇ってみると”私”のなかに”私”自身も知らなかった、『これに遇いたかった』という願いがあったことに気付きます。この願いの方が”私”よりずっと根源的な私であり、これに遇いえたことは”私”にとって大きく深い慶びであるのです。」
田畑の註、細川巌師は浄土真宗の中心的な言葉「本願」を、根本の本、本来の本の意味が有ると講義されていました。他から私の方へ仏説無量寿経(大経)として48の本願が説かれています。その中心の願が第18願だと言われています(中心は第18願であると最初に示されたのは、「往生要集」を書かれた源信僧都でした。源信の師は比叡山中興の大師といわれる慈恵大師良源でした、その師は根本の願は第19願と言われていました。その理由は本願の中で臨終のときに阿弥陀仏がわざわざお迎えに来ると書かれていることが理由だったようです。その師の説に依らず、本願の心を自分の身を通して第18願が根本として源信は読みとられたのです)。良源は文献的な分別の考察から第19願と読まれたのでしょう。我々の普段の思考と同じ理知を拠(よ)り所とする分別我です。源信は仏教を自分の身を通して受けとめられたのです。田畑が推測するに無著・天(世)親兄弟によって仏の悟りの内容を思惟して明らかに大成された唯識の心理の洞察(深層心理、末那識・阿頼耶識)と縁起の法を受けとめ、その自分という存在(無我・無常)の深く広く、なおかつ煩悩性を照らし出された時、自分の方に救いの手立て無しと目覚められたのです(源信の言葉「妄念はもとより凡夫に地体なり、妄念の外に別の心も無きなり」)。人間存在の在り様を知らされ仏の救いに漏れる者のない浄土の教えこそ大乗仏教として見出されたのでしょう。源信が法然・親鸞によって改めて見出されるのに約二百年を要しています。(源信が唯識の文献を読まれたかは???)
 本願の意味の「本来」に関して、理知分別のとらえる自我意識を「私の存在」と考える場合、仏智(無量光)に照らし出される深層心理の煩悩性、そして縁起の法で自分の存在の無我・無常を知らされると、分別我の考える自分の在り様の視点の狭さ(局所的)、そして煩悩性を洞察する不徹底さを知らされ、全体が見えてない、ということになるでしょう。分別我の考える「私」は仏智によって徹底的に否定されます。愚かさと煩悩性故に救われる手立てのない存在と目覚める時、その救われがたい理由こそ、よき師・友を通して伝えられた本願、南無阿弥陀仏のはたらきの理由、目当てだったのです。その本願に触れる過程で、その本願に共鳴するが如くに、これに遇いたかった、何か不思議にも私の心の奥底で願っていたように気づかされて思われるのです(私の本来性に通じる)。今月のカレンダーの言葉「あなたの感じられている虚しさこそ、真実の世界への強烈なる憧れなのです」。法蔵菩薩は私達の救いのない凡夫性を見抜かれて方便法身の南無阿弥陀仏という名号、念仏となって如来(如より我々の身に来られている、信心は如来なのです)しているのです。大峯顯師は「我々は菩薩が阿弥陀仏になる瞬間を経験しているのです。それは私が念仏する存在となった瞬間です、と言われていました。法蔵菩薩は迷える衆生を救う修行(菩薩から仏へ、仏がまた菩薩となり)を兆載永劫、続けておられるのです。(註終わり)

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